IE9ピン留め
『小川紳介を語る』(私の一冊番外編)
秋田駅前の本屋、あぶみ書房が数年前まで発行していた「あぶみ書房通信」では、毎年1回、「私の一冊」と題したアンケートを実施していた。本屋のお客さんたちが、その年最も印象に残った本を一冊あげて簡単な感想を添えるアンケートで、ぼくも3回参加させてもらった。どんな本をあげていたのかバックナンバーを調べてみたら、金井美恵子の『映画 柔らかい肌』、武満徹の『夢の映画 映画の夢』、そして宮本常一の『旅の民俗と歴史』。3回のうち2回は映画に関する本を選んでいた。    

ぼくは本をあまり読むほうではない。小説はまったく読まない。ノンフィクションも特別に関心をもった分野のものだけ。それでいて雑誌はマメに目を通す。つまり活字人間というより、視覚的な情報メディアとしての書物に価値を見い出すお手軽なヴィジュアル人間なのだ。それで映画について書かれた本が「私の一冊」になったりするわけだけれど。

でも、映画の本なら何でもいいというわけではもちろんなく、前記2冊のような書き手の映画に対するきわめて個人的なオマージュがこちらに伝わって、活字の行間から映像が立ち上ってくるようなもの。それと成瀬巳喜男組の美術監督だった中古智が語る『成瀬巳喜男の仕事』、アメリカン・シネマの撮影監督たちの仕事を解説した『マスターズ・オブ・ライト』など、映画製作の現場に携わった人にしかわからない技術的な側面に光をあてたものが好みだ。

そこで『小川紳介を語る』だが、これはもう、あぶみ書房通信がまだ発行されていたら、文句なしに「私の一冊」にあげた映画本だろう。まず本の装幀が泣ける。表紙は小川プロの最前線で使われ続けたカメラ、400フィートマガジン付きECLAIR(エクレール)16。そこに「ショットって息なんだよね、息としかいいようがない。私たちの息が生きものの息と同期(シンクロ)していく!」という小川監督の言葉がかぶさり、目次扉には小川監督がフィルムを口に挟み、コマを凝視している写真が使われている。      

装幀の鈴木一誌は杉浦康平と組んで晩聲社のブックデザインを多く手掛け(ぼくの本棚を調べてみたら立松和平の『砂糖きび畑のまれびと』がそうだった)、『1000年刻みの日時計』の宣伝物のデザインなどもしてきた人。カメラやフィルムなど映画の肉体に対するモノマニアルなフェティシズムが強烈に感じられるこの装幀だけで、故・小川紳介監督の映画への想いがひしひしと伝わってくる。そして小川監督の仲間、友人、映画評論家など関係者22人が語った証言と講演,対談をまとめたこの本自体が一本の映画、小川監督の作品のように思えてくる。              

(「NEW FOLKLORE EXPRESS」平成5年3月)
# by tabunoki28 | 2012-02-02 00:28 |
男鹿島断章-私の中の幻の島-
男鹿半島は元々は日本海に浮かぶ島だった。その後、雄物川、米代川が運んだ土砂などで陸地と繋がってしまい、その間に海跡湖として八郎潟ができたといわれている。男鹿半島が島であったという説が、私に憧憬と懐かしさの感情を呼び起こし、同時に新鮮なイメージを喚起させてくれる。私の心の中の男鹿は、いつも水平線に真山、本山、毛無山の男鹿三山の島影となって幻のように立ち現れる。

百宅(ももやけ)の男鹿島

雄和町の高尾山の登山道に、男鹿の山並みを遠望できる場所がある。ここから眺める男鹿半島は本当に美しい。雄物川河口からゆるく弧を描いて続く海岸線がなければ、静けさをたたえて黒々と浮かぶ孤立した大きな島のように見える。高尾山に限らず、秋田県中央部の山頂からは、大気が澄んだ日に男鹿三山を確かめることができる。そして、時には思いがけない場所で、男鹿の島影を望むこともある。

数年前、鳥海山北東麓の鳥海町百宅に至る峠道で、見なれたその姿を見はるかした時には驚いてしまった。矢島、本荘を流れ、日本海に注ぐ子吉川の流域に沿って開けた視界の延長線上に、男鹿の島影がくっきりと浮かびあがっていた。由利地方の海岸線から見えるのは当然としても、かつて秘境と呼ばれた百宅で男鹿島に出合うとは思ってもみなかった。私は幻の島を見ているような錯覚にとらわれたものだ。

島の精神誌

「私は、島に次第に近づいてゆく瞬間が好きだ」
岡谷公二氏の『島の精神誌』の冒頭はこのフレーズから始まる。島に渡り、島をめぐる島旅に魅せられた人なら誰でもこの言葉にうなずくに違いない。五千トン以上の大型フェリーであれ、百トン足らずの小さな連絡船であれ、港を離れ、未知の島に向かう時のわくわくするような期待感。同時に味わうせつないようなときめき。そして、個別の表情をたたえた島々が、徐々に近づいてくる瞬間の郷愁と憧れが入り混じったような奇妙な感情。何時間にも及ぶ船旅ならなおさらのこと、出港と入港の際に感得するあの高揚とした気分が、島旅を忘れがたいものにする。

私が初めて渡った島は、島根県沖の日本海に浮かぶ隠岐(おき)の島だった。当時、折口信夫(釈迢空)の歌集『海やまのあひだ』に収められている-「この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ」-という歌を愛誦していた。この歌が折口信夫の隠岐旅行の印象から生まれたと解説されていたことから隠岐を選んだのだが、実は私は、隠岐と壱岐(いき)を間違えていたのだった。折口信夫が実際に渡ったのは、九州の玄界灘に浮かぶ壱岐の島で、そのことに気づいたのは隠岐旅行を終えた後のことだ。しかし、私にとって隠岐の島旅の印象は強烈で、その後の数々の島めぐりの旅へのスプリングボードとなった。

長崎港から男鹿島へ

静かな凪の海面に連なるたおやかな瀬戸内海の島々、四国と九州を隔てる豊後水道に忘れられたようにたたずむ島々、個性的な顔貌で孤立しているような吐噶喇(とから)列島の島々、珊瑚礁に囲まれ静止した時の中にまどろむ八重山諸島の島々…。そうした数多くの島との出会いの中でも、特に強い印象を残しているのが五島列島の福江島だ。

長崎港を出てから2時間ほどして現れた島影はどこかで見覚えがあった。福江港の背後にそびえるホマーテ型の火山鬼岳が、その山容といい高さといい男鹿の火山寒風山にそっくりで、そのうえ福江港の街並みも男鹿の船川港とよく似ているからだった。私は船上で、長崎港から連絡船に乗り、男鹿島(そこは私の故郷だ)へ帰郷しているような不思議な思いに満たされたのを、今でも鮮明に覚えている。

幻の島影、幻想の男鹿島

京都府の舞鶴港から日本海を北上し、北海道の小樽港へ至る北日本海フェリーに乗ったことがある。季節は11月末、初冬の日本海は荒れ狂い、私は出港して2時間後にはもう船酔いで動けなくなっていた。なぜこの船に乗ったのかといえば、海上から男鹿の島影を望んでみたいと思ったからだった。

船内に掲示してある航行地図には、男鹿半島入道崎沖の通過予定時刻が書いてあった。私はその時刻になると船酔いでフラフラになりながらも、デッキに出て目を凝らした。風が強く今にも雨が降り出しそうな曇り空。視界はきかず、とうとう男鹿島はその姿をあらわすことはなかった。

でも私は失望はしなかった。男鹿の島影を見られなかったことが、以前にも増して男鹿の《島》としてのイメージをふくらませた。折口信夫がいう《妣(はは)が国》や、遙か海の彼方にあるといわれている来訪神の棲む浄土《ニライカナイ》を男鹿のイメージに重ね合わせ、船酔いの朦朧とした意識の中で、私だけの幻想の《島》を思い描いていたのだった。

(「週刊アキタ」/昭和63年(1988)10月)

海上から望む男鹿島



# by tabunoki28 | 2011-11-04 11:46 | 男鹿半島
200字詰め原稿用紙
「秋建時報」が全面電子化に移行するという知らせが届いた。まったく思いもしていなかったので驚いた。

私が随想欄に最初に寄稿させていただいたのは、1994年(平成6年)8月号だった。それ以来、17年。考えてみれば随分長い間お世話になっている。これも時代の流れなのだろうか。感慨が深い。

そういえば、200字詰め原稿用紙を目にしなくなってから、もう何年になるだろう。私の初めての本、『秋田いで湯100泉』(無明舎出版/1987年)の原稿はすべて手書きだった。一度書いたものを消しゴムで消し、文章を何度も書き直す…。パソコンのワープロソフトのコピー&ペーストであっという間にできてしまうこの作業を、当時はエンピツで原稿用紙のマスを辛抱強く埋めていった。

今同じことをしろといわれても、とてもできそうにない。
私が文章を書くことで生計をたてるようになった20年ちょっと前には考えも及ばなかったことではある。

(「秋建時報」平成23年4月)
# by tabunoki28 | 2011-09-06 21:37 |
旅する若者たち
2ヵ月ほど前の7月中旬、秋田県との県境に近い青森県深浦町(旧岩崎村)の木蓮寺でJR五能線の風景写真を撮っていたら、「何を撮っているんですか」と声をかける人がいた。ふり向くと、大きなリュックを背負い日焼けした男性が、一段高い道路からこちらを見ている。ひと目見て徒歩旅行中の若者だとわかったので、私のほうが逆に興味をもっていろいろ聞いてみた。

名前はH君。故郷の群馬県の前橋を出発してから東北地方の福島、宮城、岩手、青森と北上、北海道をおよそ1ヵ月かけてめぐったのち再び本州に渡り、今は青森から秋田に向けて歩いているところだという。このあと日本海側を南下し関西へ。四国に渡ったあと九州を経て、最終の目的地は沖縄という。何事もなければ、旅が終わるのは5~6ヵ月先になるだろう、とのこと。

実は私も10代後半に、彼が歩いてきた北海道南部や津軽西海岸の道を、菅江真澄の旅の跡をたどって数十日かけ歩いたことがある。だから、彼のような若者を見ると親しみが湧き、他人のような気がしない。私に声をかけてくれたのも何かの縁かと思い、持っていたデジカメで彼の姿を撮り、握手をして別れた。
 
夏の季節に車を走らせていると、H君のような徒歩のほか、自転車、バイクなどで長距離旅行している若者たちをよく見かける。10代、20代には、私も同じように徒歩や自転車でよく旅をしていたので、彼らを目にするたびに若いころの感情がよみがえって懐かしい気持ちになる。そんな時、お金がなかったのでヒッチハイクをすることも多かった私は、恩返しというわけでもないが、ヒッチハイカーがいれば乗せてあげよう、と思う。

ところが、そんな私なのに免許をとってからこれまで乗せたことがあるのはわずか2回だけで、ヒッチハイカーにほとんどお目にかかったことがないのである。

かつて60年代、70年代のころは、ヒッピー文化の影響もあって世界中でヒッチハイク旅行を試みる若者がいたが、現在は法令で禁止している国(本場のアメリカでは州)もあり、旅行の移動手段としては世界的に衰退しているようだ。
  
日本はもともと無銭旅行=ヒッチハイクの文化がなかったので、定着する以前に衰退したともいえる。また、私自身ひんぱんに幹線道路や高速道路(最近のヒッチハイカーは高速のサービスエリアでヒッチハイキングすることが多いようだ)を走っているわけではないので、ヒッチハイカーに出会う確率が少ないこともあるのかもしれない。

私が乗せた2人のヒッチハイカーのうち、ひとりは外国人、もうひとりは女性だった。

外国人は20代半ばくらいの若いドイツ人で、15年ほど前、秋田から男鹿へ向けて土崎の臨海道路を走っている時に、道端で親指を突き立てていた。このポーズは万国共通のヒッチハイクの意志表示だ。もちろん親指以外の人差指や中指を立てたら、国によっては大変なことになる。

彼を乗せたとき、ちょうどカーステレオでかけていたのが、ドイツ映画の『ベルリン天使の詩』(1987年/ヴィム・ベンダース監督)のサウンドトラックだった。偶然にしてはできすぎていると思われるだろうが、でも、嘘のようなホントの話である。

この映画は有名なので彼も知っていて、まさかこんなところでドイツ語を聞けると思わなかったのか、驚き喜んでくれた。映画で詩を朗読するペーター・ハントケという作家について話をしたかったが、お互い片言の英語ではうまく意志の疎通ができず、男鹿半島の南海岸の門前集落まで乗せ、そこで別れた。

日本を旅行中のドイツの若者が、せっかく男鹿まで来てくれたのにろくな案内もせず、交通量の少ない辺鄙な場所で降ろしてしまった。今思えば、自宅に泊めるなどもっと親切にしてあげればよかったと後悔している。

もうひとりの女性のヒッチハイカーを乗せたのは10年ほど前のこと。彼女は早朝5時半ころ、秋田南インターチェンジの入り口に立っていた。その日、お昼に福島で取材の仕事があり、朝早く高速道路に乗ろうとした私の車に近づいてきて、東京まで乗せてくれという。

見れば、まだ高校生と思しき若い女の子ではないか。「福島までしか行かないが」と言うと「それでもいい」と言って乗り込んできた。

ひと目のつかいない早朝、若い娘がインターチェンジで東京行きの車に乗せてもらうなんて、どう考えても家出としか思えない。それに見ず知らずの男の車に乗るなんて怖いもの知らずというか、大胆だとは思ったが、私は彼女のプライベートに立ち入る話はまったくせず、福島のサービスエリアまで乗せ、そこで降りてもらった。

彼女には次は運転手が男性ではなく、女性か夫婦の車を探して乗るようにとアドバイスしたが、それを見届けることなく別れた。今でも無事東京に着いたのか、その後どうなったのか、時々気になる。結果的に家出の手助けをしたことになるのだが、彼女とプライベートな話をしなかったのは、私には10代の娘を説教する度胸などハナからなかったということだと、今にして思える。

私にとって今のところたった2人のヒッチハイカー体験だが、どちらも映画のワンシーンのような、あまり現実味のない話なのが考えてみれば不思議だ。ちょっぴり後味が悪い思いが残っていることも。

ところで、秋田・青森県境で出会った徒歩旅行の若者H君は、今ごろどのあたりを歩いているのだろうか。別れ際に彼の写真を撮った時、私のブログに載せることを了解してもらった。群馬の親御さんや友人たちが万が一インターネットで見ることがあれば、元気な姿に安心するだろう。そして私のブログを見た人が彼をどこかで目にすることがあったら、励ましの声をかけてあげることもできるだろう。

彼とはまたどこかで会えるかもしれない。旅の幸運と無事を秋田から祈ることにしよう。

(「秋建時報」平成22年9月)



# by tabunoki28 | 2011-06-20 09:56 |
千人風呂の思い出
青森県八甲田にある酸ヶ湯温泉は、収容600人のどっしりとした一軒宿で、総ヒバ造りの混浴大浴場「千人風呂」が名物の歴史ある湯治場だ。標高900メートルの高地にあるといっても、青森市街からは約30キロと意外に近く道路も整備されているので、四季を通じて行楽客、湯治客が絶えることはない。

私がこの酸ケ湯温泉を初めて訪れたのは、今から20数年前、高校を卒業した年の晩秋の季節だった。今でこそ青森市と酸ヶ湯間は冬の間も除雪され、宿も通年営業が可能になったが、当時は国鉄バスの運行休止とともに冬期間の休業を余儀なくされていた。観光シーズンが終わりを告げ、長い冬の眠りにつく寸前だったせいか、観光客はまばらで宿は空いていた。

あちらこちらと旅をすることが子供の時分から好きだった私だが、そのころはまだ温泉に関しては未熟者で、知識も経験もほとんどゼロ。それゆえ、旅と温泉が必ずしも結びつくというわけではなく、たまたま旅のルート上に温泉宿があるので利用するというだけのことにすぎなかった。そんな温泉初心者の私にとって、巨大な湯治旅館としての酸ヶ湯のたたずまいは新しい発見であり、驚きであった。そして、何よりも混浴の「千人風呂」での体験が強烈で、今に至るまでの酸ヶ湯の印象を決定づけている。
   
              *          *         
  
当時は自家発電のせいもあって旅館内はほの暗く、眠りにつく前に入った「千人風呂」は、晩秋のこととて、浴場内は湯気でもうもう、その中を湯治のお年寄りたちがゆらゆらと漂っていた。私も広い浴槽の片隅で、湯気に包まれ、ゆらゆら揺れていたような気がする。と、そばで湯に浸かっていた人がスーッと立ち上がり、浴槽の縁に腰かけた。とたん、アッと息をのんだ。女性だったのだ。
目の前に突然現れた若い女性の裸身。心臓の鼓動がいっぺんに高く早く鳴り出した。なにしろまだ十代だった私は、女性の裸に免疫ができていなかった。

その女性は、私がすぐ目の前で見ていることを知ってか知らずか乳房を隠すわけでもない。恥ずかしがる様子もなく堂々としている。年齢は20歳前後だろうか。髪が短く少女の面影を残す純朴そうな顔立ち。お湯に濡れて紅潮した皮膚。湯気に包まれて浮かびあがったその裸身が一瞬のうちに目に焼きついてしまった。
何て美しいんだろう。自然であるがままの肉体の美しさ、存在感。私はこの女性に本当の意味での一目惚れをしてしまったのだった。  

翌朝、酸ヶ湯を去る前に館内をさがし歩いてみたが、彼女らしい女性は見つけることはできなかった。どこか身体が悪いようには見えなかったから、家族の誰かの湯治についてきていたのだろうか。それとも酸ヶ湯の住み込みの従業員だったのだろうか。あの堂々として屈託がなく、混浴に馴れた様子は観光客ではなく、地元津軽の女性に違いなかったろう。    
                
            *         *

そして20数年後。酸ヶ湯の「千人風呂」は、昔も今もその造りと雰囲気は変わらない。ただ脱衣場には「浴槽へは着衣(水着)で入らぬように、混浴は男女の区域を守るように」との注意書きが貼られるようになった。浴槽に男女の境界線ができ、女性専用タイムが設けられてもいる。
温泉ブーム、秘湯ブームということで若い女性や観光客が押しかけ、それをまたテレビなどが興味本位にとりあげたりするので、かつての混浴風景が様変わりしつつあるのはいたしかたないことであろう。

とはいっても、やはりここは私にとって混浴初体験の特別な浴場だ。ドメスティックな湯治場を巡り歩き、今では混浴にすっかり馴れているはずの私が、いまだに「千人風呂」で湯に浸かっていると、一目惚れした彼女の姿態が湯気の中に見え隠れするようで、何となく胸騒ぎを覚えてしまうのだから。まだ青臭く純情(?)だった10代の私にタイムスリップしてしまうのか、普段、他の温泉では感ずることのない混浴のプレッシャーに、ドギマギして落ち着かなくなるのである。

温泉評論家の大石真人さんは「千人風呂」について、「老若男女恥じらいもなく、大きな浴槽に浸かっているのは、東北の湯治場の本当の姿だ」と述べている。また、津軽出身の作家、今日出海さんは言っている。「この大きな浴場に東北の健康な男女が混浴している図を、都会の不健康な者に見せてやりたい。セザンヌの沐浴図のごとく立派である」と。

2人の言葉に大いに共感し、納得するのだが、こと「千人風呂」に関しては、私は恥じらいのない健康な東北人としては失格のようである。

(「秋建時報」平成8年6月)
酸ヶ湯温泉自炊部館内
# by tabunoki28 | 2011-04-03 17:35 | 温泉
台湾旅行の思い出
私にとって台湾といえば、何より台湾映画。候考賢(ホウ・シャオシェン)の「恋々風塵」「悲情城市」、エドワード・ヤン(楊徳昌)の「カップルズ」「ヤンヤン夏の想い出」などの映画にロケ地として登場する台北やその近郊の風景や人のたたずまいがなぜか懐かしく、親しみを覚えるので、行く前から台湾ははじめて訪ねる場所じゃないような気がしていた。

「悲情城市」は、大陸を追われ台湾に逃げ込んできた国民党(外省人)が台湾人(本省人)を弾圧し、2万人を超す犠牲者を出したいわゆる「2.28事件」を扱った映画だが、情感たっぷりに描かれた九份(ジュウフェン)という鉱山街の風景がとりわけ印象的だった。というわけで、旅行3日目に台北から列車とバスを乗り継いで九份に行ってみた。

山の急斜面に階段状に連なる街は以前住んだことのある長崎に似ているが、メーンストリートは南北に走る一本の石段で、規模はずっと小さい。その石段の両側には、レストランや喫茶店が軒を連ね、観光客がぞろぞろ歩いている。脇道に入るとそこは食堂、市場、みやげ物屋、床屋などがひしめきあい、ものすごい人の群れ。あーあ、「悲情城市」のあの九份はどこに……。

一時はすっかりさびれ、人々から忘れ去られていた静かな街は、映画のヒットで台湾の柴又(?)といわれる一大観光地になっていたのでした。それでも、今は廃墟となった映画館に「恋々風塵」の上映中の看板がそのまま飾ってあったのには、候考賢ファンの私には嬉しかった。


九份を予定より早く切り上げて時間ができたので、思い切って東部の温泉町・蘇澳(スーアオ)へ行ってみることにした。実は台湾は日本に負けず劣らずの温泉国で、その数100カ所以上。日本の統治時代に開発されたものも多いが、3年前の1999年には「台湾温泉観光年」として官民あげて温泉地の開発が進められた。今は露天風呂ブームとかで、本屋の旅行ガイドのコーナーには、ズバリ「秘湯!」というガイドブックが並んでいるほど(秘湯ということばは日本からの輸入)。

蘇澳は台北から特急列車で2時間ちょっと。途中、太平洋の海原や、宣欄平野の田園風景に心洗われる思い。この懐かしさの感情はどこから湧き上がってくるのだろう。台北の夜市の喧噪より、車窓のアジア的田園風景に心動かされるのは、トシのせいなのかな。

蘇澳駅から歩いて3分のところに温泉公園があった。温泉といっても、ここは台湾で唯一の冷泉で、それも非常に珍しい21℃の炭酸冷泉。公園内には冷泉の湧き出る石造りの露天風呂(冷泉浴地)があり、水着の老若男女が思い思いに湯浴み(といえるのか?)をしていた。

台湾では見知らぬ人に裸を見られるのを好まないので、露天風呂は水着着用が原則。また、大きな湯舟に大勢で入るという文化もないので、公衆浴場は各個室にひとり用の浴槽が並んだ構造が一般的だ。蘇澳の温泉公園にも露天風呂のほかに冷泉浴室があったので、早速はいってみた。

2畳ほどの個室に玉砂利を敷いたレンガ造りの浴槽がひとつ。21℃なのでその冷たいこと。がまんして身を沈めると全身に気泡がつく。あがってみるとあら不思議、身体が火照ってる。公園内の屋台で魚のすり身団子と風呂あがりの台湾ビール。ウーン、満足、満足。しかし、いいことばかりは続かない。帰りの列車は身動きができないほどの超満員で、デッキと連結器の上で立ちっぱなしのまま、台北まで2時間揺られるはめになってしまった。

でも、旅から帰った今、不思議なことにこの満員列車が異国での旅の印象深い思い出として刻まれている。それは、一緒に列車に乗っていた台湾の人々が、おだやかで親切だったからだろうか。台北も大都市ではあるが、高密度の割には柔らかでぎすぎすしていない。ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンの映画から受ける印象そのままに。
プールのような蘇澳の露天風呂

(無明舎出版HP「舎員旅行・台湾編」より/平成14年10月)
# by tabunoki28 | 2011-01-30 00:24 |
銭湯が消える日
昨年暮れ、新聞(地元紙)に秋田市手形にある銭湯「手形の湯」が大みそかをもって廃業するという記事が載っていた。

今から30年ちょっと前の1970年代の末、私は秋田市手形にアパートを借りた。秋田市に住むのは、この時が初めて。そして風呂付きの部屋を借りたのも初めてだった。高校を卒業してから、それまで十数回あちらこちらと引っ越し歩いていたのだが、姉のマンションに居候をした時以外はすべて風呂なしの安アパート住まいで、ずっと銭湯のお世話になっていた。その癖?が抜けなかったのか、風呂付きの部屋に住んでも、時々「手形の湯」に通った。手形地区は秋田大学がある学生町で、銭湯は当時まだまだ多かった風呂なしの部屋に住む学生たちで混み合った。そのころ、夕方から始まる仕事をしていた私は、まだ日が高い時間、空いているお昼の銭湯に入るのが好きだった。

その後、手形地区だけで5回引っ越し、ほかに秋田市内の保戸野、将軍野、旭南にも住んだ。保戸野の部屋は風呂がなかったので、「杉の湯」(保戸野通町)、「辻の湯」(大町一丁目)に通った。特にお気に入りだったのが「杉の湯」。昭和10年と11年に来県したドイツ人建築家、ブルーノ・タウトが棟続きの旧金谷旅館に宿泊した際に入浴したという老舗銭湯で、番台には老夫婦がかわりばんこに座っていた。脱衣所も浴場もこぢんまりとした小さな銭湯だったが、ここに来るとなぜかほっとし、癒された。

藩政時代の羽州街道のなごり“六道の辻”にあった「辻の湯」も、江戸時代末期に開業したという長い歴史を持つ銭湯であった。この「辻の湯」の脱衣場には、詩人の田村隆一氏による次のような言葉を書き連ねたポスターが貼ってあった。   
「銭湯すたれば人情もすたる。 銭湯を知らない子供たちに集団生活のルールとマナーを教えよ。 自宅にふろありといえどもそのポリぶろは親子のしゃべり合う場にあらず、ただ体を洗うだけ。タオルのしぼり方、体を洗う順序など、基本的ルールは誰が教えるのか。われは、わがルーツをもとめて銭湯へ」
ブルー一色に白抜き文字のこのポスターは、銭湯にエアコンを納入する業者が配布したのがはじまりといい、「辻の湯」だけでなくどこの銭湯でもよく見られたものである。

秋田市高清水岡の麓(将軍野)にいた時は、借りている部屋の狭苦しいユニットバスに入るのが嫌で、土崎地区の銭湯のお世話になった。「山乃湯」(将軍野南)、「みなと湯」(土崎港中央)、「浜の湯」(土崎港中央)、このほかにもアパートから5キロも離れていた飯島の「松ね湯」まで遠征したりした。今ふりかえってみると、よっぽど暇で物好きだったという気もするが、当時はまだ独身だったこともあり、おそらく日々のストレスを銭湯めぐりで発散させ、孤独をまぎらわしていたのではないかと思う。

土崎の銭湯では「山乃湯」がもっとも印象深い。「湯乃山」と右横書きの文字と煙突のある建物だったので、前を通るたび気になっていたのだが、入口にのれん(男湯、女湯)がかかっておらず、外観も廃屋のよう。てっきり廃業した銭湯とばかり思っていたら、中から洗面道具を持って出てくる人を偶然発見、営業している銭湯だと知り、それから建物のボロさに惹かれてよく利用した。

「ボロさに惹かれる」というのは、へんな言い方かもしれないが、どうも私には壊れ廃れてゆくモノに惹かれる性向があるらしい。マンガ家のつげ義春氏が「ボロ宿考」と題したエッセーのなかで、「貧しげな宿屋を見ると私はむやみに泊りたくなる」と述べているのと、似たような気持ちといったらいいだろうか。

旭南に住んだ時は、さすがにトシのせいか出かけるのが億劫になり、銭湯通いの頻度が落ちたが、それでも「上野湯」(川尻上野町)、「亀の湯」(中通六丁目)、「星の湯」(南通みその町)などを時々利用した。ちょうどそのころ、秋田県内の主な町を電車で訪ね、銭湯に入って一杯飲(や)って帰るという―ただそれだけの小旅行をちょくちょくやった。今から15年ほど前には、鷹巣、十文字のようなそれほど大きくない町でもまだ銭湯が健在で、駅前食堂も何軒かあった。あわよくば、その小さな旅の記録を本にしようともくろんでいたのだが、あまりに地味すぎて出しても売れないだろうと中途であきらめ、いつしか私のささやかな小旅行も沙汰やみになってしまった。

そうこうしているうち、そんな私のディレッタント趣味にはおかまいなく、秋田県内の銭湯はどんどん姿を消していったのだった。平成18年の統計によれば、秋田県内に22軒の銭湯があったというが、4年後の現在はおそらく一桁台まで減少しているのではないだろうか。秋田市だけに限っていえば、昭和39年には秋田市内に44軒の銭湯があったが、「手形の湯」の廃業で、現在も営業しているのは、「星の湯」1軒のみ。私が20代後半から40代後半まで秋田市に居をかまえたおよそ20年間、通った銭湯のほとんどが今はないとは、なんということだろう。

経営者の高齢化と後継者不足、新興温泉施設との競合、建物や設備の老朽化、燃料の高騰、それによる収入減…。廃業の理由は各銭湯によって異なるだろうが、風呂付アパートが一般的になり、一人暮らしの若い人でも銭湯を利用する必要がなくなってしまった。私の若いころと違って、彼らに銭湯はもう必要ないのだ。

だが、そういう私でさえ、もう随分長い間、銭湯を利用していない。ある人がインターネットのブログに次のように書いていた。「世代を超えた庶民のサロン、地域住民のコミュニケーションセンターとしての機能を兼ね備えていた、銭湯とその文化の残り火も、もはや風前のともしび。その衰退はさみしいことだが、これも時代の流れ、自然淘汰というほかなく、銭湯に通わなくなって久しい自分には、それをとやかく云う資格もない」(ブログ「二〇世紀ひみつ基地」)

近い将来、秋田県内から銭湯が消える日が来るかもしれない。しかし、それをとやかく言ったり、感傷的に嘆いたりする資格は今の私にもない。

(「秋建時報」平成22年4月)
# by tabunoki28 | 2010-11-01 18:31 |
海の湯治場 金ヶ崎温泉
秋田県で古くから湯治場として賑わったところは、主に奥羽山脈の火山地帯にある山の温泉で、海岸地帯はきわめて数が少ない。だから、男鹿半島西海岸に湧く金ヶ崎温泉は貴重な存在だった。だったと過去形にしたのは、50年ほど前までは源泉のある海浜に露天の浴槽と宿舎が設けられ、湯治客が利用していたのだが、現在は宿もお風呂もないからだ。  

東北地方で波打ち際の温泉といえば、青森県の津軽西海岸にある不老ふ死(ふろうふし)温泉が知られているが、金ヶ崎温泉はもっと原始的で野性味にあふれていた。それにこの温泉は人家から遠く離れた隔絶された場所にあり、断崖を下るか海上から行くしかないため、湯治客の多くは船でやってくることが多かった。まさに海の秘湯だったのだ。

その金ヶ崎温泉に久しぶりに行ってみた。温泉といっても入り江の波打ち際にコンクリートの崩れた露天風呂跡が残っているだけなので、正確には温泉跡といったほうがいいかもしれない。温泉跡へはちゃんとした道がついておらず、断崖を下りていかなければならない。

10年ほど前に行った時は釣り人が設置したと思われるロープを伝って下りたのだが、その場所を忘れてしまい見つけることができず、県道(旧有料道路)の「金ヶ崎温泉」バス停の脇からかすかな踏み跡をたよりに下った。繁茂した草木が行く手を遮り、途中から完全な藪漕ぎ。どうにか浜まで下りて露天風呂跡まで行くと、驚いたことに先客がいた。あとでお名前を聞いたらMさんといい、現在は秋田市に住んでいるが、生まれはすぐ近くの戸賀集落で、時々温泉の様子を確かめにやって来るのだという。
(Mさんからはあとで「男鹿で生まれ育ったあなたがよく金ヶ崎温泉に来てくれた。うれしく思う」とのお手紙をいただいた。その手紙で秋田県の水環境保全や山岳清掃に取り組み、そのための発言や活動をしている人だということを、知った)

崩壊したかつての浴槽の中にお湯が今も湧き出ていて、直径50センチほどの円形の湯だまりとなっている。見たら数日前に海が荒れたため、砂で埋まっている。そこをMさんは手で掘り返し、小さな露天風呂を出現させた。深さは5、60センチくらいだというので、腰を入れて浸かろうとしたら、アチチチ。熱くて入れない。50度くらいだろうか。

泉質は近くの男鹿温泉に似た黄土色の食塩泉(ナトリウム塩化物泉)で、成分濃厚なのか湯舟の中には析出物も見られる。泉温も高いので温泉としては第一級といっていいだろう。こんないい温泉を前に指をくわえて見ているだけなのもしゃくなので、お湯を手ですくって、海の秘湯・金ヶ崎温泉を身体に浴びた。

昭和54年(1979年)、この金ヶ崎温泉を引湯して秋田県企業局が2キロ離れた場所に「桜島荘」を開業したが、経営難から民間へ売却され、平成16年(2004年)春「HOTELきららか」としてリニューアルオープンし、現在に至っている。ただ、温泉そのものは露天風呂跡から南に200メートルほど離れた海岸で新たにボーリングして得たものを使用しているので、泉質に若干の違いがあり、こちらは正確には新金ヶ崎温泉と呼ぶべきものかと思う。

金ヶ崎温泉にはちゃんとした宿舎があった。北海道のニシン漁で財をなした戸賀集落の網元が大正年間に建てたというもので、6畳ほどの部屋が4つある長屋風、老夫婦が管理人として住んでいた。その夫婦がMさんのいとこだったので、戸賀から丸木舟を漕いでよく温泉に入りにきたのだという。当時は陸路は馬がやっと通れるほどの山道しかなく、漁師に頼んで船で来る人が多かった。「皮膚病の人たちや肺病(肺結核)の人たちがたくさん湯治にやって来て、ここで亡くなった人も多い。金ヶ崎で亡霊が出るとよくいわれたものだ」と、Mさん。

管理人夫婦が引き払ったのは昭和25年(1950年)ころで、その後もしばらくは放置された宿舎を利用する湯治客がいたというが、嵐などで宿舎が痛み、湯船が崩れるなどして、次第に行く人もいなくなったということだ。
 
男鹿半島の四季を歌った『男鹿小唄』という新作民謡に、「渡り鳥さえ濡れ羽を休め、のぞくいで湯の金ヶ崎」という歌詞がある。このことからもわかるように、かつて金ヶ崎温泉は男鹿を代表する海の湯治場であった。こんな観光資源をほったらかしにしておくのはもったいない。ここに夏の間だけでも利用できる浴舎と休憩施設があったらいいのになあ…。入り江に桟橋をとは言わないまでも、ちょっとお金がかかるかもしれないが、県道から下る遊歩道が造れないものだろうか。間断なくぷくぷく湧き出る湯を見ながらそんなことを考えた。

(「秋建時報」平成20年11月)
金ヶ崎温泉跡。赤矢印が露天風呂。右のこんもりと木が生い茂っているあたりに宿舎があった。
# by tabunoki28 | 2010-08-04 16:43 | 男鹿半島
麦秋のころ
小津安二郎監督の作品には、「晩春」、「早春」、「秋日和」など季節を表す題名がついたものが多いが、なかでも気にいっているのが「麦秋」。娘の結婚をめぐって展開する家族模様を描いた小津映画でよくあるパターン、典型的なホームドラマなのだが、ぼくは小津安二郎の最高傑作はこの作品だと決めている。

婚期を逸しかけている娘(原節子)が隣家の子持ちの男と結婚するのだが、その男の転勤先が秋田。この映画のなかで原節子は下手な秋田弁をひとことだけ喋る。つい最近、マガジンハウスから出た写真集を見て、ぼくにとっての原節子の魅力は、大造りでバタくさい顔よりも声にあると思った。あのくぐもったアルトの声質に。

ところで、麦秋とは麦が刈り取られる初夏の季節のことをいうが、麦にとっての秋としたところが日本人の言葉らしくていい。ぼくは1年中で麦秋、つまり今の季節、6月が一番好きだ。秋田の梅雨は7月後半がひどく、6月は結構、晴れの日が多い。それに日が長いので何だか得した気分になる。雨降りも嫌いじゃないし、特に雨上がりの大気の清々しさ、風の運んでくるさやけき香り、揺れる新緑の葉裏に包まれる心地よさといったら…。ホント、おおげさじゃなく生きていることに感謝したくなる。

こんな気持ちがいつまでも持続してくれたらなぁ。

(「NEW FOLKLORE EXPRESS」No.4/平成4年〈1992年〉6月)

※toshibon's essay「こまちと原節子」
http://tabunoki.exblog.jp/4613391/

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# by tabunoki28 | 2010-06-15 18:47 |
真澄が教えた幻の湯
新年早々、インフルエンザに罹ってしまい、39度の高熱が3日続き、5日も寝込んでしまった。ようやく治ってから仕事を再開し、菅江真澄の資料を整理していると、以前にも増して、真澄もたびたび熱を出して寝込んでいることに関心が及んだ。

秋田県立博物館の菅江真澄資料センターの来館者に、「真澄は身体があまり丈夫なほうではなかったんですよ」と言うと、ほとんどの方は意外だという感想を持たれた。生涯定住せずに各地を遍歴した歩く旅の達人、といったイメージを持っている人が多いからだろう。

ところがそうしたイメージに反して、日記を読むと気分がすぐれず逗留先で床についたり、旅の途中で臥せっている記述がところどころに出てくる。それも1日や2日ではなく、1週間から10日にも及ぶことが多い。また、特に船には弱かったらしく、船酔いでフラフラになっている姿も日記には珍しくない。外見もどちらかというと小柄で、偉丈夫にはほど遠かったようだ。

どうやら、真澄は持病を持っていたらしい。

『菅江真澄の謎多き生涯』という本で、著者の故佐藤久治氏(元菅江真澄研究会会長)は、真澄は瘧(おこり)、またの名を〃わらわやみ(童病)〃という病気に苦しめられたと推測している。瘧は、毎日か隔日に定期間発熱し、同時に悪寒や身体の震えを発する病気で、間歇熱の一種という。マラリアに似た熱病ともいわれる瘧が真澄の持病であるという説は、私もかなり信憑性を持っているのではないかと思う。

この真澄持病説に関連して、佐藤久治氏が次のようなもうひとつの仮説を著書で述べているのも興味深い。
「持病のわらわやみには温泉が最適と真澄は思ったようで、県内の温泉を好んだ」「わらわやみは東北の寒冷からきたもので、温まればと温泉を求め歩いた。温泉に詳しい一面も持病にあると思う」

真澄の持病と温泉訪問が、はっきりした関連性をもっているのか断定はできないが、真澄の温泉好きは日記を読めばすぐにわかることで、秋田県内だけでも約50泉、自分が足跡を印した土地のほとんどの温泉を訪ねている。その中のひとつに栩湯(橡湯)という今は廃湯となった湯治場がある。私は15年ほど前、この幻の湯治場・栩湯(とちゆ)へ急に行ってみたくなり、栩湯探しに出かけてみたことがあった。

栩湯は秋田県の最南端、雄勝郡皆瀬村の小安温泉のほぼ真南の山中にある。真澄がこの温泉を訪ねたのは文化11年(1814)。当時から、すでに雄勝郡には泥湯、小安、大湯、湯の岱、川原毛、栩湯などの温泉場があった。それぞれに浴舎が設けられ、湯治客がつめかけていたことは、真澄の図絵などからもうかがい知れる。

真澄が記録した温泉のうち、この栩湯と川原毛の湯には現在、宿も浴舎もない。川原毛温泉は滝壺が天然の露天風呂となる最後の秘湯、大湯滝として多くの観光客が訪れるようになり、すっかり有名になった。しかし、栩湯の方は、どんな温泉か今では誰も知る人はいない。温泉のガイドブックにも、皆瀬村の観光案内にも見つけることはできず、すっかり忘れられた温泉となっている。ただ、5万分の1地図やいくつかの道路地図には、国道398号の新処集落から山道を示す点線が伸び、5キロほど先に温泉マークが載っている。

温泉までの道順を聞くため、栩湯へ向かう山道の登り口にある新処集落の佐藤さんというお宅を訪ねた。そこで幸運にもスエノさんという78歳(当時)になるおばあちゃんから、戦前から戦後にかけての栩湯のお話をうかがうことができた。
20歳の時、湯沢からここに嫁いできたというスエノさんの若い時分は、栩湯と切っても切れない関係にあったようだ。かつての栩湯の話を昨日のことのように話してくれた。

…日帰りには難儀な場所なので、栩湯にやってくる湯治客は十日から半月滞在する。そのため米、味噌、醤油はもちろん、食器、調理用具、燃料、布団に至るまで運ばなければならなかった。一度に十貫目(約三十八キロ)もの重さの荷物を背負って山道を一日二回も往復した。一回運んで五十銭だったからいい収入になった。
また、自宅で採れた野菜などを売りにいった。湯治客がやってくるのは五月から十月まで、冬の間は閉鎖した。最盛期には百人以上の湯治客が集まり、長屋のような三棟の宿舎が満杯になった…
 
新処から小安温泉へは南に1キロ足らず、その先には大湯温泉があり、ひとつ山を越すと泥湯温泉がある。それぞれに泉質が異なるため、湯治する人たちは自分の身体の状態に合わせてこれらの湯をめぐっていたのだという(ちなみに栩湯はアルカリ性泉、小安は食塩泉、泥湯は硫化水素泉、大湯は硫黄泉、川原毛は酸性泉)。

栩湯の最後の経営者は三梨村(現稲川町)の人で、昭和30年代の初めごろに廃業したという。新処には11軒の家があるが、昔の栩湯を知る人も少なくなった。スエノさんも、もう20年以上も栩湯には行っていないということだった。

(「秋建時報」平成14年2月)
倒壊した栩湯の温泉宿舎の残骸(1988年撮影)
# by tabunoki28 | 2010-05-22 15:42 | 菅江真澄
秋田のかすべ料理
先般、JR東日本のPR誌(新幹線の座席などに置いている車内誌)のコラムの仕事で、秋田のかすべ料理を取材する機会をもった。かすべとは、ガンギエイ科のエイの総称で、主に北海道と東北地方の日本海側で用いられている呼び名。秋田では古くからエイのヒレ部分の干物(干しかすべ)を食材としたかすべ料理が、日持ちのよい食べ物として親しまれてきた。なかでもよく知られているのが秋田市土崎の港祭り(土崎港曳山まつり/土崎神明社祭典)のかすべ料理だろう。

毎年7月20日、21日に行われる祭りは、かつては「かすべ祭り」とも呼ばれていた。干しかすべを一昼夜水につけて戻し、いったん水煮し柔らかくなったところで砂糖(ザラメ)、酒、醤油でじっくり煮つける。このかすべの煮つけが、祭りのもてなしに欠かせない料理だったことから、その名がついたといわれている。日本でガンギエイ(かすべ)が水揚げされているのは主に北海道。それがなぜ秋田の祭りでもてはやされるようになったのだろうか。

土崎は古くからの港町で、江戸時代から明治時代にかけては日本海を往来した北前船の寄港地として栄えた。北前船は上方への帰り船で蝦夷地(北海道)からさまざまな物資を運んだが、干しかすべもそのひとつだったのではないか。土崎のほか、能代の夏祭り(日吉神社、八幡神社の祭典)でも干しかすべの煮つけが食べられているので、かつての日本海西廻り航路の港の交易が、かすべ料理にその痕跡を残しているといえそうだ。

ただ、夏祭りの酒席になくてはならなかったかすべ料理も、最近は作る人がだんだん減っているらしい。今はかすべより見た目がよくておいしいご馳走がいくらでもあるうえ、かなりの時間をかけて煮込むので、調理に手間がかかるせいもあるのだろうか。

PR誌のコラムは、東日本各地に伝わる伝統的な食材を飲食店を介して紹介するという内容なのだが、かすべを昔ほど食べなくなったこともあって、土崎地区も含めて秋田市内で常時かすべ料理を提供しているところは珍しく、探すのに大変苦労した。

ようやく探し当てたのが、秋田市山王にある「くもりのちはれ」という酒房。この店には以前、別の場所でやっていた時に何回か飲みに行ったことがあるのだが、当時はかすべはメニューになかった。オーナーのKさんによると、移転してから秋田の伝統的な料理づくりに積極的に取り組み、そのひとつとしてかすべ料理もメニューに加えたのだという。一般家庭では以前ほど食べられなくなったかすべだが、美肌効果のあるコラーゲンを含んでいるので、女性客が好んで注文し食べているというのが、意外だった。
 
メニューを見て気が付いたのは、干しかすべによる伝統的な煮つけ(甘露煮、山椒煮)のほか、「生」のかすべを使った料理も提供していること。秋田市で生のかすべが流通するようになったのは、ここ10年ほどのことらしく、一般にはまだあまり馴染みがない食材といっていい。

北海道で獲れるガンギエイ(かすべ)には、メガネカスベ(真カスベ・本カスベ)とドブカスベ(水カスベ)と呼ばれている種類があり、真カスベのほうが値段が高く味もよいという。「くもりのちはれ」では、この生の真カスベを煮つけ、ぬた、一夜干し焼き、唐揚げなどで供している。料理の写真撮影が終わってからこれらを一品ずついただいた。

秋田でのかすべ料理の代名詞ともいえる干しかすべの煮つけ(甘露煮)は、こりこりした軟骨とぷよぷよしたゼラチン質の食感が独特。甘露煮なので酒と相性がよくないように思えるが、甘辛い味が不思議とビールに合う。夏の暑い時期に食べられるのもむべなるかな。

生のかすべ料理は初めて食べてみた。身はけっこう肉厚でふんわりと柔らかく、味は魚と貝の中間のよう。軟骨魚類特有の臭みもない。どれも酒の肴にぴったりの絶品。生のかすべ料理がこんなにおいしいものとは思ってもみなかったので、驚いた。

今回の取材のために調べてわかったのだが、かすべが水揚げされる北海道では昔から生が流通しているので、秋田のような干物は全くといっていいほど食べないらしい。生かすべを煮つけて一晩置くと、ゼラチン質の煮こごりができる。それをご飯にかけて食べる「かすべの煮こごり」や、日常の総菜として天ぷらや唐揚げにして食べるのが一般的だという。
北海道でかすべの干物を取り扱っている水産加工会社は、そのほとんどを東北地方、それも日本海側の青森県津軽地方、秋田県、山形県に出荷しているそうだ。

冷凍技術がなかったころは、魚は干物にして船で運ばれたので、北前船の寄港地だった地域に干しかすべを水で戻して煮つけにする食べ方が根付いたのだろう。特に秋田県では生もの料理に頭を悩ます夏の暑い時期の行事食(土崎や能代の夏祭りなど)や、鮮魚の乏しい内陸部の冬場の保存食として重宝されるようになったと思われる。

秋田県と同じくかすべ煮をよく食べる山形県では、かすべを「からげ」あるいは「からかい」ともいうらしい。この名前は江戸時代に山形の米貿易を牛耳っていた近江商人が、「中国(唐)の貝」(つまり「からかい」)だといって法外な値段で売りつけたことに由来するという。真偽のほどはわからないが、かすべの語源は安くてまずい「魚のカス」という意味から名付けられたという説もある。当時かすべの干物は関西地方では肥料として使われていたというから、この話もあながち嘘ではないような気もする。

いずれにしても秋田のかすべ料理は、東北の日本海側の気候風土と、食材に乏しかった時代の主婦たちの知恵の中から生まれた食べ物であるには違いない。

生かすべの煮つけ

干しかすべの煮つけ

(「秋建時報」平成19年11月)
# by tabunoki28 | 2010-04-11 15:59 | 民俗・伝承
Station To Station ―都市に棲む島―
◇意識の記念物◇

高知から大型フェリーで東京へ。 かすかにローリングする船のリズムに身をまかせて折口信夫(釈迢空) の歌を呟く。

この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ

人も馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ

葛の花  踏みしだかれて、色あたらし、この山道を行きし人あり

「葛の花~」から連想する継続した時間の流れ、それは均質空間の、ただ流れ去るだけの均質化された時間ではなく一瞬の時に支配された永遠のことだ。

外洋から東京湾にはいり、観音崎をかすめぼんやり霞む巨大都市を見遙かした時、私は見知らぬ惑星に降り立つ異星人のような気持になっていた。夢の島から放たれる異臭と至るところに咲き乱れるセイタカアワダチソウ。もうこの都市に棲むこともないだろう。

東京から新潟経由で秋田に向かう。日本海沿いに北上する羽越線の列車が本荘を渦ぎるあたり、左前方にみえてくる島影。島の輪郭がはっさりするにつれてそれは陸続きの半島だとわかる。東北地方の日本海側、単調な海岸線を唯一乱している男鹿半島を車窓から望むと同時に湧き上がるある感情。それは《島》へ渡る時に決まって現れる懐かしさの感情だ。元来は男鹿半島も《島》であった。雄物川、米代川が運んだ土砂で陸地と繋がってしまい、いわゆる陸繋島となったのだ。

私はこの半島の南岸に位置する“椿”という名の漁村で生まれた。村の中心にはヤブツバキで覆われている小高い丘があり、ツバキの自生北限地として国の天然記念物に指定されている。温暖な南の地方の植物であるツバキがここだけに群生しているのは、考えてみれば不思議なことだった。南に連なるといえば、子供の頃、浜で幾度か椰子の実をみつけた。もちろん当時は「海上の道」など知るよしもないから、サッカーのポール変わりに蹴飛ばしたり、石にぶつけたりして遊んでいたものだった。

男鹿半島は日本海にコブのように突き出ている為に漂流物が多い。浜廻りの習慣が盛んだったのも寄り物が多いためだ。沖縄西北海城で黒潮の一部は西へ分岐し、九州西岸を北上して対馬海峡から日本海へはいる。対馬暖流と呼称される潮流は椰子の実だけではなく気まぐれに様々のものを運んできただろう。

またこの潮の流れにのった日本海西廻り航路による北上。その往古の動きがもたらしたものは、言葉や、民謡の一節など南西地方の文化とともに、ツバキの種子も運んだのではないか。―Station→To→Station―ツバキはそれゆえ天然記念物ではなく、港から港へ渡り歩く南の人々がもたらしたささやかな意識の記念物ではなかったろうか。


◇Stationとして◇

長崎に棲んでいた時、長崎県立図書館の1階ロビーに掲示してあった1枚のポスターを持ち帰り、ジャズ喫茶『K』の裏、薄暗い私の部屋にそのポスターを貼り、日がな―日眺めていた。それは電通の広告作文コンクール募集のポスターで、現在「ニライカナイ」の店の正面に貼ってある地図は、そのポスターから文字を切り取ったものだ。

細長い日本列島を正方形に細かく分割し、それをコラージュによって再構成したはぼ円形の日本。ある種の異様さを見る者に与えるこの地図は、また同時に新鮮なイメージを喚起させる。「古代緑地」そして「妣が国」は、きっとこのような形をした《島》に違いなかろうと―。

かつて隠岐の島や五島列島の福江島に渡る船上で私が想い続けていた幻想の《島》。静かな凪の海面に反射する陽光のきらめきを透かして次第に姿をみせる島影。その時口をついてでたのは「島へ渡る時はただの旅人(Passenger)、島から帰る時はまれびと(Visitor)」というフレーズだった。

私はいつか一個の椰子の実になろうとしたことがあった。また菅江真澄になろうとしたこともあった。様々な都市をめぐり歩いて秋田に棲む現在、私はPassengerとしての意識を遠く離れようと思う。またVisitorの悲しみも感得せぬようにと願う。ニライカナイの扉を開ける“まれびと”たちを待ち続ける―Station To Station―のToではなくStationになりたいと―。


(object magazine『遊』/昭和55年(1980)4月)
# by tabunoki28 | 2010-01-04 17:01 |
考現学のキッチュな日々
1970年代の中ごろ、神奈川県鎌倉市に1年ばかり住んだことがあった。あちらこちらの都市を転々と引っ越し歩く浮浪者まがいの生活を続けていた私が、そこで熱中していたことはと言えば、鎌倉の銭湯を調べることだった。

市内にある5軒の銭湯の番台の高さ、座っている人物の特徴、脱衣カゴやロッカーの位置利用者の服装と晨物の種類、浴槽の形、蛇口の数とお湯の出具合、冷蔵庫の中にある清涼飲料水の銘柄‥‥等々。それらをノートに図解入りで書き留めていた。中でも浴場内の壁面に描かれているベンキ絵の絵柄は 特に力を注いだ研究対象であった。

こんなことをやりだしたきっかけは、民俗学に興味を持ち図書館通いを日課としていた私が、柳田国男や折口信夫の全集と並んで書架にあった今和次郎全集に遭遇したことに始まる。

大正から昭和初期にかけて考古学に対しての考現学(モデルノロジー)を提唱したこの人の仕事が、「もの好き」「デイレッタント」としての私の感覚にぴったり来るものがあった。例えば丸ビル界限にやつてくるモガたちを追跡し、克明に記録(採集)した「丸ビルモダンガール 散歩コース」の意味のない面白さにわけもなく感動したのだった。

そこで私も考現学採集のまねごとを銭湯において実践してみたというわけだ。さらにそのころ、故石子順造の評論集『キッチュの聖と俗』を愛読していたので、キッチェという言葉の響きが私の変質者的視線と呼応し合い、目玉を銭湯のぺンキ絵とむかわせていた。

ちょっと一般社会の規範からズレているもの、簡単にわりきったり意味付けできないもの、街を歩いていると出喰わす時代を感得させる様々な風俗、意匠。一瞬のまばたきの間に移り過ぎていく時間のきしみ、または停上した記憶が宇宙人の忘れ物のように痕跡となって残っているモノたち‥‥。

考現学とキッチュのフィルターを通して世の中を覗き見ることが、今この時、極東の島国に生きていることを自覚させ、スピリッツが1969年で切れてしまった(イーグルス「ホテルカリフォルニア」)と歌われた70年代、黄昏の日々を退屈せずに過ごさせてくれたのだった。

(「あぶみ書房通信」/昭和62年〈1987年〉5月)

# by tabunoki28 | 2009-12-01 18:34 |
ミネラ・ライトの眼差し
鉱物の中には紫外線をあてると、“螢光”といって自然光の時とは別なそのもの特有の色を発するものがある。さらに、中には紫外線を切っても、“燐光“といってしばらくその色を発し続けているものもある

秋田大学付属鉱業博物館は、ぼくの棲むアパートから歩いて5分もかからないところにあるが、秋田大学の学生さえ訪れることが稀で、いつも館内は関数としている。ぼくは小さな川沿いの道を、途中平田篤胤の墓を経由したりして散歩がてらに足を向けることがある。7年程前、友人がある雑誌にそこで見た「ミネラライト」のことを報告してから興味を持ち、この暗箱の小宇宙を時々覗いて見たくなるためだ。

一階には鉱物を納めたガラスの陳列欄が並んでいるが、それとは別に装飾ベニヤで枠取られた胸の高さほどの箱があり、その中に方解石、ウェルネル石、珪酸亜鉛鉱、オパールなどの石が置かれている。暗箱を覗きポタンを押して紫外線を照射すると、螢光燈をあてていた時は何の変哲もなかったそれらのミネラルたちがそれぞれ果なる固有の光を放つ。また紫外線を切っても、ある種のものはかすかな色で輝き続ける。

友人はこのミネラライトを見て「ここにも星の世界があると思った」と書いているが、ぼくはそれとは別にひとつの感慨をもつ。「ぼくたちはいつもミネラルにとっての自然光のように世界を見ている。しかしミネラルにとっての紫外線のような視線でも世界を見ることができないものだろうか」と。たとえば奥羽・蝦夷を巡歴し秋田で没した江戸時代の旅人、菅工真澄のように。彼は視えないものを視る明視力を旅の途上で培かっていき、眼に映じる全てのものに光をあて、それを独自な光沢で輝かせた眼差しの彷徨者ではなかったろうか。

真澄には八郎潟の氷下漁を取材した『氷魚(ひお)の村君』という日記があるが、そこで彼は地元で“きつねたて”と呼ばれている蜃気楼を見ている。雪原の彼方に現われては消える蜃気楼を書き留めた文は、ミネラライトの暗箱の中で淡く残光を放つ燐光のようだ。氷下漁をする人々を丹念に描き留めた絵は、紫外線をあてられたミネラルのようだ。

人やことばが、街や風俗が絶えず流れ去り、揺り動き、変質し続けていく時代。そしてその時代の中ですんなり閉塞しているかのようなぼくたちの存在に、真澄のような「ミネラライトの眼差し」が新たな可能性を与えるのではないか。暗箱を覗きながらそう思うのだ。

(「同時代通信vol.1」/昭和56年(1981年)1月)
# by tabunoki28 | 2009-09-16 12:57 | 菅江真澄
武蔵府中の思い出
先月から「宮本常一が見た日本」と題したTV講座が放送されている。ノンフィタション作家の佐野真一氏が講師となって、昭和初期から高度経済成長期まで日本中をくまなく歩き、昭和の菅江真澄ともいわれた民俗学者宮本常一(1907~1981)の旅と学問を検証しようという番組である。その第2回目(2月11日放送)では、宮本が15歳で故郷の周防大島を離れる時、父の善十郎から十カ条の教えを授けられたことを取り上げていた。その教えの内容とは次のようなものである。

汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか…。村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ。そして方向を知り、目立つものを見よ…。時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。いろいろのことを教えられる。(以下略)

ぼくは番組を見ながら、少年常一がかつて父から授かったこうした旅の教訓を、そのまま宮本常一の著作を通して教わっていたのではないかとの思いを持った。

73年の生涯に合計16万キロ、のべにして4千日におよぶ行程を、ほとんど自分の足だけで歩き、泊めてもらった民家は千軒を越えたというこの「旅の巨人」に、その著作を通して出会ったのは25年も前、東京郊外の府中市においてである。そのころのぼくは大学生でありながら講義にはほとんど出席せず、アルバイトをしながら、東京とその近県をあちこちと引っ越し歩く生活を続けていた。神奈川県鎌倉市、千葉県松戸市と引っ越しを続けていたので、次は武蔵野、多摩地区にでも住んでみようと地図上から選んだのが(武蔵)府中だった。

府中は新宿から京王帝都電鉄京王線の特急電車で20分の距離にあり、大東京のメガロポリスにすっぽり入っているので、駅を降りる前までは単なる衛星都市のひとつのように思っていた。ところが歩いてみると、もともと甲州街道の宿場町として発展し、武蔵総社とも六所宮ともいわれた由緒ある大国魂神社の門前町の顔を持つこの町には、新しく出現した郊外のべッドタウンとは違って古い伝統文化が残っているように感じられた。

大国魂神社の前から京王線と甲州街道に交差して、大木のケヤキ並木が続いている。その並木の素晴らしさを見ていっぺんでこの町が好きになり、神社のすぐ東側にアパートを探しあて、窓からケヤキの杜が見える部屋を借りた。そして隣町の調布にあるT現像所でアルバイトを始めたのである。

T現像所は映画フィルムの現像専門で、ぼくの仕事は映画やコマーシヤルフィルムのラッシュを映写する小さな映写室の映写係。新作映画がタダで見られるので、映画好きのぽくにとっては楽しい仕事であった。そこではいつも映写があるというわけではなかったので、暇なときには映写室で本を読むことができた。大国魂神社の境内には市立図書館があり、ぽくはここを自分の書斎のように毎日利用した。ここで柳田国男や折口信夫、考現学を主唱した今和次郎の全集などを初めてちゃんと読んだのだが、最も頻繁に借りたのは宮本常一の著作であった。

膨大な数の著作の中でも、自分が撮った写真を多く添えて書き下ろした日本発見の旅行記とでもいうべき『私の日本地図』という叢書に一番惹かれた。その叢書の中には「武蔵府中」という一冊があり、それで宮本常一は府中に住んでいることを知ったのもうれしい偶然であった。

「武蔵府中」を読んでから、武蔵野という今は人工的に埋めつくされた広大な台地がパースペクティブな広がりをもちはじめ、様々なものが見えてくるようになった。
たとえば多摩川の川沿いの低地から一段一段高くなっていく河岸段丘。この段丘によってできる崖を府中のあたりではハケという古い言葉で呼んでいる。大国魂神社の社殿の裏手は崖になっていて、これが府中崖線というハケだ。崖の高さは10メートル以上ある。古い集落は台地を境にするこの崖線に沿って多く見られるが、それはハケの下から清水の湧くことが多いためだという。
ここに縄文時代の遺跡が数多く出土しているのも、縄文人は自然の地形をよく見ていて、住む場所として崖の上を選び、狩猟や魚捕りは崖の下に降りたから。また、府中が早く開けて武蔵の国府が置かれ、大国魂神社がハケの上に鎮座ましましているのも、そこに多摩川があり、ハケがつくられたからなのである。

そして何よりも府中を好きになれたのほ大国魂神社があったからだった。7月20日のすもも祭りには、神社の参道の両側いっぱいに悪鬼を祓うといわれるスモモを売る店が並び、縁起物の烏団扇(からすうちわ)も売られる。アルバイト先のT現像所の映写室の中にも飾ってあった飛ぶカラスを描いた黒い団扇。この団扇であおぐと農作物の病害虫が除かれ、病気も治るという。

25年前のその祭りで買い求めた烏団扇は、以来、数え切れないほどの引っ越しのたびに新居の戸口に飾った。そして今もボロボロになりながら、玄関のドアの上で疫除け用として現役でいる。
                                                
烏団扇

大国魂神社参道

(「秋建時報」平成12年12月)
# by tabunoki28 | 2009-07-09 20:08 |
高清水丘陵と海
土崎港のセリオン(ポートタワー)展望室から秋田市街地の方向を望むと、高清水岡が緑のベルトとなって横たわり、その向こうに中心街のビル群がぼんやりと並んでいるのが見える。高清水岡はまるで秋田の街を外敵から護る天然の防波堤のようだ。
そういえば寺内から八橋方向へ向かう旧国道の、通称油田坂(あぶらでんざか)の途中から眺める秋田(旧久保田城下町)の街は、どこか内陸のおだやかな都市の顔をしている。高清水岡が冬の季節風をさえぎるかわりに、海を遠くさせているからなのだろう。   

ぼくが現在住んでいるのは、その高清水岡の東麓、幣切山(へいきりやま)と呼ばれる丘陵斜面。ここに3年前に引っ越してきて、真っ先に感じたのは、海の匂いだった。それまで10年もの間、秋田大学がほど近くにある手形地区に住んでいたのだが、海を意織することは全くといっていいほどなかった。
セリオンとは反対方向の八橋付近上空から撮影した航空写真で見る高清水岡は、旧雄物川河口、日本海、そして男鹿半島を背にして眠る胎児のようでもある。いつも背中に海を感じている独立丘陵、それが高清水岡なのだ。

部屋のベランダから製紙工場の煙突が見えるのだが、起床すると必ずその煙突から出る白煙のなびく方向を確かめるのが日課となったのも、海が近いことと無関係ではない。海から吹いてくる風の方向で、その日の寒暖のめやすがわかるからだ。
煙が北にゆるやかにたなびけば(南風)暖かい。反対に南へ水平にたなびけば(北西風)寒波の襲来で寒くなる。数年続きの暖冬だといっても、12月から2月にかけては北西の季節風の日がほとんどだった。

土崎から高清水岡のあたりはクロマツの多いところだが、どの木の幹も南東の方向に斜めに伸びている。雪が片側の幹だけに張り付いて、白く凍りついている松をよくみかける。それだけ北西の風が強いという証拠だ。
深夜や夜明け前、眠りからふと目覚めると、高清水岡の木々が激しい風に揺れざわめいて、枕元まで聴こえてくる時がある。日本海から直接吹き渡る風がこの岡にぶつかる響きは、まるで不安をかきたてる大嵐の海鳴りのようでもある。

享和元年(1801)の年の暮、土崎から久保田へ向かった菅江真澄は、途中、左手の雪の岡に大きな石塔を見て、これを目標として船が港に入るのだと書き記している。この石塔は高清水岡の北側に土崎の港を望むように建っている五輪塔のこと。しかし、真澄が見た塔は文化元年(1804)の象潟地震と文化7年(1811)の男鹿地震により崩壊したといわれ、現在建っているのは後に復元されたものだ。

この五輪塔のある岡の下は坂道になっていて、五輪坂と呼ばれる。寺内から土崎方向へ向かい、この坂を下っていくと視界が開け、家々の屋根ごしに土崎の港が望める。現在は建物がびっしりと建ち並んでいるために、海も港も家並に隠れてかすかにしか見ることができないが、真澄の通ったころはさぞ見晴らしのいい坂道だったに違いない。
旅人たちは高清水岡を境に、入船、出船で賑わう湊の繁栄ぶりと海に浮かんでいるような男鹿の山並みを眺め、久保田とは異なる開放的な海の匂いを胸一杯に吸い込んだことだろう。

真澄が湊に入る船の目じるしだと書いた五輪塔のある高清水岡は、言うまでもなく古代東北文化の一中心地であったと思われる「秋田城」跡でもある。秋田城は軍事基地であり北羽開発の行政府であったといわれるが、一方では大陸の朝鮮半島から沿海州にかけて築かれた渤海国との交易の拠点であったとする説もある。
高清水岡という出羽国最北の地に築かれた城柵は、決して北辺の袋小路ではなかった。海を前に開かれていた前線基地でもあったのではないだろうか。

慶長7年(1602)、秋田に移された佐竹義宣は、湊安東氏の居城だった土崎の湊城に一時入城するものの、すぐに久保田に城を築いてしまう。ある郷土史研究家の方がテレビで言っていた。佐竹氏は常陸国の内陸の太田というところからやってきたので、海に関心がなく、それで土崎を離れたのだと。 

ぼくは義宣公と違って男鹿半島の磯辺で生まれたので、海が親しく懐かしい。潮騒、潮風、潮の香…。それら海の記憶を呼び覚ますアトモスフィアと、秋田城が築造された1200年余り前から海を渡って吹き続けている風の記憶が、土崎から高清水岡の辺りには漂っている。

(「秋建時報」平成7年9月)
土崎港のポートタワーから望む高清水丘陵。背後に広がるのは秋田市街地。


# by tabunoki28 | 2009-05-11 00:05 |
温泉で出会った守り神
岩手山(2038m)は、岩鷲山、南部富士、南部片富士などの呼び名があることからもわかるように、見る角度、移動する速度によってまるでひとつの山でないかのように変化する。岩手県の八幡平側から眺めると、盛岡や雫石方面から見る均整のとれた穏やかな表情とは異なり、西側の屏風尾根が荒々しい風貌で迫ってくる。

松川温泉は、この岩手山の八幡平側北西麓にくいいるように、東八幡平温泉郷から8キロほど奥に入った海抜800mのところにある。ホテルやペンションが立ち並ぶリゾートエリアの東八幡平の湯というよりは、岩手連峰を挟んで相対する網張温泉や滝の上温泉などと同じく岩手山麓の湯場としての印象が強く、岩手県の盛岡市以北では最も湯治場風情を残している温泉だ。

宿は3軒あり、松川渓谷沿いに下流から松楓荘、松川荘、峡雲荘が飛び飛びに離れて建っているので、それぞれが一軒宿としての味わいを持つといってもよい。私が泊まるのはそのうちの松楓荘。ここには内風呂、露天風呂のほかに、松川の渓流をはさんだ対岸に天然の一枚岩をくり抜いた洞窟のような半露天の岩風呂があり、宿の名物になっている。

松楓荘を初めて訪れた10年ほど前に、私はこの岩風呂で一匹の蛇に出会った。宿から危なっかしい吊り橋を渡って対岸の風呂に入りに行くと、先客のおばあさんが湯に浸かりながら、しきりにあごで私の左上の方に注意をうながす。何事かと思い振り向いたらびっくり。大きなアオダイショウ(青大将)が舌をチロチロ出し、すぐそばの祠のようなところで、とぐろを巻いているではないか。私は蛇を極端に嫌うタイプの人間ではないが、その時は同行した女性が気味悪がり、結局、岩風呂には入ることなく松楓荘を後にしたのだった。

今回は連れもいないので、宿に着いて荷をおろすと、早速10年前に入りそこねた洞窟の岩風呂へと行ってみた。前回は蛇に気を取られてあまり感じなかったが、岩風呂の周囲には何かしら霊的なものを感じさせる独特の雰囲気がある。岩盤の割れ目から松の大木がそびえたち、その下の洞窟の祠には不動明王と薬師如来の小さな石仏が祀られている。蛇はその石仏を譲るようにとぐろを巻いていたのだが、今日は姿を見せていない。

何となく拍子抜けして湯に身を浸す。川原から湧いている源泉をそのまま浴槽にしているので成分は濃厚、少しぬるめの透明な流化水素泉だ。底も自然の岩で深い。奥は洞窟のように薄暗いこともあって、一般的な露天風呂の開放感とは正反対の閉塞感を覚える。

風呂からあがって宿の人に蛇のことを訊いてみた。
「あの岩の中には昔から青大将が棲んでいて、温泉の守り神だから危害を加えたりしないよう大切にしているんです。常連の湯治の人たちは誰も怖がったりせず、蛇の方もお風呂に人がいても平気なんですよ」
「今日はいませんでしたけど毎日出るんですか」
「さぁ、暖かい昼には外に出て来て、夕方になって寒くなると岩の割れ目の中に帰っていくみたいだけど……」
 
松川温泉の周辺は松川自然林養林で、紅葉の季節には一帯が赤と黄色に染まり、その美しさは岩手県内屈指といわれている。5月の新緑のころも紅葉に負けず劣らず美しいはずだが、この時期は観光の旅行客は少ないようで、夕食後の旅館の中はひっそりしている。
 
眠る前に内風呂に入り、部屋に戻って照明をつけようとしたら、窓越しに対岸の岩風呂の蛍光燈のほのかな灯かりが浮かんだ。夜になってからも懐中電灯を持って吊り橋を渡る湯治客がいる。私には夜、あの洞窟の岩風呂に入る勇気はない。岩の割れ目から青大将がじっとこちらを覗き込んでいるのでは……。入浴中に暗闇の中で対面したら……。そんなことを想像してしまうからだ。

翌朝、再び岩風呂に行ってみたが蛇の出てきた気配はなかった。狭い洗い場にひしめきあっている湯治のおばあさんたちに訊いてみると、蛇はしばらく見かけないとの答えが返ってきた。蛇などの特定の動物を神霊の化身、神の使い、あるいは守護神として崇拝し祀る習俗は、今も各地に痕跡をとどめている。大勢の湯治客を見守り、薬師如来の傍らで悠然としている青大将の姿は、まさしく温泉の守り神にふさわしいように思えるが、あるいは寿命が尽きたのだろうか。

各地の温泉を訪ね歩き、それを仕事の一部としている私にとって、ここで温泉の守り神に出会うことができたのは、とても幸運で縁起のいいことだったのかもしれない。

(「秋建時報」平成8年6月)
 
# by tabunoki28 | 2009-03-09 23:06 | 温泉
山の湯治場めぐり
秋田・岩手両県にまたがる八幡平一帯は、火山活動が活発で、その結果いたるところに火山性の温泉が湧出している。特に秋田県側は、湯治を主体として発達してきた温泉が点在し、古くから山の湯治場として賑わってきた。

私が初めて八幡平の温泉を訪れたのは、今から35年前、まだ高校生のころだった。あちらこちらと旅をすることが子どもの時分から好きだった私だが、そのころは温泉に関してはまだ未熟者で、知識も経験もゼロ。そんな温泉初心者の私にとって、オンドル小屋が何棟もゴチャゴチャとかたまった湯治場の奇異なたたずまいは、初めての混浴風呂の体験とともに、今に至るまで強烈な印象として残っている。

現在も八幡平の秋田県側には、後生掛温泉、銭川温泉、大深温泉など私もたびたび訪れる大好きな温泉宿が湯けむりをあげ、湯治客を集めている。中で中心的存在といえるのが後生掛温泉で、6棟あるオンドル宿舎(自炊の湯治棟)は、いつも湯治客で大賑わいだ。

オンドルとは、地熱を利用して身体を温める一種の蒸し風呂のようなもので、ほとんどの湯治客はこれを目当てやってくる。1カ月、2カ月居るのは珍しくなく、なかには半年、1年と滞在する人もいるという。1泊2000円前後の低料金、オンドルだから暖房費はかからないし、もちろんお風呂は入り放題。考えてみれば、高い家賃を払って都市のアパートやマンションに住むより、はるかに安上がりで健康的に暮らせるのだから、これぞ究極のリゾートといえるのかもしれない。 

後生掛温泉に限らず、自炊の湯治場で私が一番好きな場所は共同炊事場だ。料理を作りながら湯治客同士の身の上話や、かかえている病気のことなどを聞くとはなしに聞いているうちに、おかあさん、おばあちゃんたちと仲良しになって、料理を分けてもらったりすることが多い。私はどちらかというと初対面の人はニガ手で人見知りするタイプなのだが、湯治場に来ると、不思議に何でも受け入れる穏やかな感情に満たされてしまう。きっとこうした場所では、相手を思いやる、いたわる、互いに助け合うといったふるまいを、誰もがあたりまえのように身に付けているからだろう。 

後生掛温泉からさらに100メートルほど上った八幡平5合目、標高1150メートルの高所には、純然たる山の湯治場、大深温泉がある。温泉の建物は受け付けとなっている事務所と湯小屋、それにオンドル式温浴の自炊棟が2棟あるだけで、湯に入り、寝るための施設以外、余計なものは何もない。

ここのオンドル宿舎は通路の両側にゴザやカーペットを敷いただけの仕切りのない雑魚寝スタイルで、オンドル小屋の旧態をとどめている。一見不潔そうでプライバシーも保てないので、若い人や女性は尻込みするようだが、この環境に慣れてしまうと不思議と気にならなくなる。何よりもポカポカ温まって心身ともにリラックスでき、本当に心地よい。 

大深温泉には私が高校生のころ訪れた八幡平の、素朴で原始的な湯治場の雰囲気が今も残っている。オンドル宿舎でごろんと横になっていると、見るもの聞くもの何もかもが新鮮だった10代の旅の感触が甦ってくる。私の温泉の原体験、湯治場めぐりの原点が、ここにあるからだろう。

                 後生掛温泉のオンドル宿舎

※Toshibon's Blog
http://toshibon28.exblog.jp/9128311/

(岳人10月号別冊『秋山2004』/平成16年9月)
# by tabunoki28 | 2009-01-08 03:05 | 温泉
高知と私
高知を初めて訪れたのは1976年の5月、今から約18年前になる。そのころの私は大学を卒業してからも定職に就くわけでもなく、東京でその日暮らしのアルバイト生活を続けていた。一定期間働いて、ある程度の金が貯まるとどこかへ旅に出る。それが当時の私の生活スタイルで、高知へ立ち寄ったのも、中国・四国地方をフラフラ歩く目的のない旅の途中であった。

訪れる前までの私にとって、高知は特別な思い人れも興味もなく、はりまや橋、桂浜、坂本龍馬といっだステレオタイプ化された観光イメージしか持ち合わせていない一地方都市に過ぎなかった。ところがどうだろう。一歩この街に足を踏み入れたとたん、アトモスフィアというかアウラというか、とにかく私の皮膚感覚を刺激、昂揚させる空気が街全体を包み込んでいて、いっぺんにK.Oされてしまった。そう、街にノックアウト。高知の街の空気は、初対面の美女の刺激的な香水に似ていた。東北地方の日本海側、秋田県の男鹿半島で生まれ育った私にとって、高知の風光はまさに南国だった。つまり私は南の香りのとりこになってしまったのだ。

秋田で5月といえば山の木々の緑が濃くなり、ようやく春の盛りを迎える頃。それが高知では、もう夏の陽差しが街の輪郭を際だたせている。ゆっくりとした路面電車の速度とシンクロして流れ去る街の風景のリズムの心地良さ。大橋通りアーケード街の裏通りに建ち並ぶ食堂に入ると、壊れかけたクーラーがブーンとうなり、おんちゃんだちが昼から酒を飲んでいる。私もビールを1本飲み外へ出ると、夏服の女子高校生が初夏の風に吹かれてさっそうと通りを歩ていく。何だかまぶしい。秋田は高校生が夏服に衣替えするのは6月になってからなのに…。

東京に帰り、またアルバイト生活に戻ってからも高知の旅の印象は消えず、それどころかますます膨らんでいった。そして数年来、惹かれ思い続けていたひとりの旅人が高知の街とオーバーラップして離れなくなった。旅人の名は菅江真澄。故郷三河(愛知県)を30歳で出奔してから東北・北海道を歩き、76歳で秋田・角館で亡くなった江戸時代後期の観察記録者である。私はこの謎の多い旅人・真澄に心酔し、真澄のような生き方を現代においてできないものかと考えるようになっていた。周遊し帰ってくる旅ではなく、1ヵ所に留まり、その土地で暮らしながらも定住とは無縁な旅の方法―「棲む旅」とでも呼べるようなものを。

高知の旅行から半年たった翌年の1月、私はそれを実行に移した。もちろん、最初の「棲む旅」の街として選んだのは高知だった。とはいっても、高知には頼れる友人・知人はひとりもいない。全くのゼロから始めなければならない。東京の部屋を引き払い、蒲団と愛車のツーリング用自転車だけを国鉄の駅留めで送り、私は身の回り品をバッグに詰めてすぐ高知に向かった。駅留めの期限が切れる前に部屋をさがさなければならないからだ。でも、この部屋をさがすというのが大変な作業。仕事もなく住所不定、身元不明の流れ者みたいな男にそうやすやすと部屋を貸すはずがない。それで私は高知大学生と嘘をついて―そうはいっても、不動産屋の人は嘘を見抜いていたと思う―街の西部の傾斜地に建つ棟割り長屋のような部屋を借りた。次は仕事。繁華街の貼り紙を1軒1軒あたり、喫茶店の厨房にもぐりこんだ。

それから私は翌年の春まで1年3カ月、高知に棲んだ。このわずかな期間に経験した出来事は短い紙数ではとても書ききれそうにない。ひとことで言うとすれば、ひとつの街と幸福に出会い、親密に交わることができたこと。その偶然と必然。それが今の私にほ奇跡のように思えるということ…。

(自費出版センター飛鳥出版室「かわら版43号」/平成6年1月)

# by tabunoki28 | 2008-12-02 01:22 |
オフィーリアとシューマン
先日、シューマン弾きで知られる伊藤恵(けい)のピアノ・リサイタルを聴いてから、なぜかシューマンの曲を耳にすることが多くなった。この日はNHK・FM がシューマンをはじめとするロマン派 の作曲家の室内楽曲を一日特集。教育TV夜の芸術劇場では、加藤知子のバイオリンをフィーチャーしたシューマンのピアノ五重奏曲が演奏された。さらにシューマンつながりの一致がもうひとつあって、それは同じ教育TVの日曜美術館で、ミレイの「オフェーリア」が特集されたこと。ぼくの持っているピアノ五重奏曲の廉価盤レコードのジャケットが「オフェーリア」なのだ。

オフィーリア」が描かれたのは1852年。ハムレットに愛を拒まれて気が狂い、絶望のうちに溺死するシェイクスピアの悲劇のヒロインを題材にしているが、そのイメージとは裏腹に、描かれているのは口を半開きにした恍惚の表情で水面をたゆたうオフェーリアと、その周囲の輝かしい春の草花。ミレイとともにラファエル前派の重要な画家であるロセッティの絵画にも見られる死への誘惑がここにある。

晩年に精神を病んだシューマンには、入水自殺願望があったという。事実、1854年にライン河に身を投げ、その時は助けられたが、2年後の1856年に46歳で精神病院で亡くなった。ロマン派の作曲家の多くは夭折している。ピアノ五重奏曲のレコード・ジャケットがなぜ「オフェーリア」だったのかを、今日の教育TV番組の奇妙な符号から思い至り、一人納得してしまう。

※Toshibon's Blog
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(「NEW FOLKLORE EXPRESS」平成5年〈1993年〉3月)
# by tabunoki28 | 2008-09-20 00:15 |
菅江真澄の墓碑銘
菅江真澄(1754?~1829)の墓は秋田市寺内にある。
通称旧国道と呼ばれる県道から古四王神社向かいの小路を下っていくと、香炉木橋(伽羅橋)という小さな橋がある。渡ってすぐ右手の石段は共同墓地に続いており、その一番奥に灰色の自然石で造られた墓碑がたっている。

まわりは古四王神社の摂社田村堂の神職であった鎌田家の墓域だが、真澄の墓碑は南向きの他の墓石と違ってひとつだけ西を向いている。なんでも明治42年(1909)にいとなまれた八十年忌に、南向きだったものを参拝者の便宜を考慮して変えたものという。これに関しては当時から賛否があって、真澄の故郷三河の方角の南向きに戻したほうがいいという意見もあったようだが、今も旧雄物川河口と日本海に面して西向きのままだ。
高さは1メートルちょっと。正面に大きく菅江真澄翁墓とあり、そのまわりに次のような墓碑銘が刻まれている。

友たちあまたして石碑立る時よミてかきつけける

三河ノ 渥美小国ゆ
雲はなれ こゝに来をりて
夕星(ゆうつづ)の かゆきかくゆき
年まねく あそへるはしに
かしこきや 殿命(とののみこと)の  
仰言(おうせごと) いたゝき持て
石上(いそのかみ) 古き名所(などころ)
まきあるきかけるふミをら
鏡なす 明徳館に   
ことごとくさゝけをさめて 
剣太刀 名をもいさをも
万代(よろずよに)に きこえあけつる
はしきやし 菅江のをちかおくつき處         鳥屋長秋


(墓碑側面)文政十二己丑七月十九日卆年七十六七

真澄の弟子とも目された鳥屋長秋(とやのながき)という人が書いたこの歌は、どこで生まれてどんな仕事をし、どこで亡くなったかという真澄の生涯と業績を述べている。死を悼み悲しんでいるわけではないので挽歌ではなく、万葉調の長歌の墓碑銘である。また、墓碑右側面に「卆年七十六七」とあるのは、生前親しかった人たちも、真澄の年齢を正確に知らなかったことによる。

年齢だけでなく、そのパーソナルヒストリーについてはわからないことが多いため、真澄は謎の人物とされてきた。私が菅江真澄資料センター来館者から受ける質問も、大半は解明されていない真澄の人物像に関するものだ。    
なぜ暖かい東海地方から寒くて辺鄙な北国を旅したのか? 旅の費用はどうしていたのか? 生まれ故郷(出生地)はどこか? 家業は? 秋田に骨を埋めることになったわけは? いつも頭巾を被っていたのはなぜ? 一生独身だったわけは? etc…

これらの疑問に関して私ははっきりした回答を用意しているわけではない。というのも真澄は200冊にも及ぶ著書を残したといわれるのに、その中に身辺上のことや自分の気持ちというものをほとんど書き残していないため、私個人の憶測、推測で答えるわけにはいかないからだ。       
ただ、故郷(出生地)に関しては、墓碑銘に「三河ノ渥美小国ゆ」と書いてあるので、確定はできないが、愛知県豊橋市あたりかもしれません、と答えることにしている。「小国」ということばは、万葉集で豊かで暮らしやすい小さな村里という意味として用いている例があることから、「三河ノ渥美小国ゆ」は、「三河の渥美郡の小さな村里からやって来た」というふうに訳すことができる。それが真澄が生まれたのは渥美郡、今の愛知県豊橋市周辺という説の根拠となる。
しかし、第三者の書いた墓碑銘が必ずしも真実を語っているとは限らないわけで、結局は本人が口をつぐんでいる以上、真澄についての様々な疑問に即座に回答ができる日は永久にこないのかもしれない。

ところで、ここでちょっと個人的な話をさせていただくと、私は結婚式を寺内の古四王神社であげた。古四王神社は、真澄を葬った鎌田家の田村堂が今も境内にあり、宮司さんの亀井宥三さんは菅江真澄研究会の副会長をなさっていて、毎年、真澄の命日には墓前祭を執り行っている。本当に菅江真澄とゆかりの深いところで、ここで是非とも式をしたいということで、亀井宮司さんにお願いしてあげてもらったわけである。

神社での式の時、菅江真澄ということばを祝詞の中に入れてもらえないかとお願いしたのだが、亀井さんは真澄は一生独身だったからそういう縁起の悪いことはできないとおっしゃった。妻ともどもそれはそうだが…と笑いあったのが今もおかしく思い出される。真澄は生涯独身で家庭を持たない人であった。しかし、それは彼が自ら選んで旅人の生涯を課したものであって、決してさびしい一生ではなかったと思うのだ。

式が終わってから参列した人たちと一緒に真澄の墓に詣でたのだが、おそらく結婚式を古四王神社であげて、そのあとすぐに真澄の墓に結婚の報告に行ったのは、秋田にいくら真澄ファン多しといえども私ぐらいではなかろうか。 

(「秋建時報」平成13年3月)



墓碑側面
# by tabunoki28 | 2008-09-04 14:45 | 菅江真澄
土石流にのまれた湯治場
地元紙の朝刊一面は、5月11日、鹿角市八幡平で地滑り・土石流が発生し、澄川温泉と赤川温泉の建物16棟が、一瞬のうちに土砂と濁流に飲みこまれ全壊したことを伝えていた。大きく掲載されたカラー写真には、赤茶色の泥水に押し流されている赤い屋根が写っていた。それは見覚えのある赤川温泉の建物だった。わずかに屋根の湯気抜きの部分だけが原形をとどめ、あとはばらばらに壊れている浴場棟の写真を見ながら私は呆然とするしかなかった。

泉質のよさ、オンドル式の入浴法、豊かな自然に恵まれた環境など、今では貴重となった価値ある湯治場の姿を伝える八幡平の温泉群。いまだに湯治主体の自炊宿が多いため、全体に飾り気のないのんびりとした大らかさが漂っているのが好ましく、中でも澄川、赤川の両温泉は、私が愛してやまない山の湯治場であった。

赤川温泉は大正時代の末に湯治小屋が建てられたといい、八幡平の温泉群の中でも、最も原始的で素朴な姿を留めている温泉だった。 何よりもすべて木づくりの混浴の大きな浴場がそれを物語っていた。温泉宿の内湯で、脱衣場も男女の区別がない本当の意味での混浴風呂は、秋田県では赤川温泉だけといってよかったろう。

15年ほど前までは、秋田県だけでなく東北各地の湯治場では混浴風呂が普通に見られたものだが、温泉ブームということで都会からの観光客や女性客が進出するようになり、次第に姿を消しつつある。そんな中で赤川温泉の浴場だけは、純粋な混浴風景を守り通す名物風呂として、知る人ぞ知るの存在だった。    

昨年、この風呂を取材に訪れた時には、鹿角市花輪からやって来たという中年のご夫婦が仲良く浴槽に並んで浸かっていたので、許しを得て写真を撮らせてもらった。数十年間、一緒に通い続けていると話してくれたこのご夫婦も、泥流に赤川温泉の浴場棟が流されている新聞の写真を見て、私のようにショックを受けたことだろう。

また、澄川温泉は、八幡平に数ある温泉の中で、私がもっともよく宿泊したところで、気のあった友人2、3人と一緒に自炊部に泊まることが常であった。オンドル式の宿舎で一日ごろごろしながら、それぞれ異なる泉質の泉源が引かれた2つの浴場と露天風呂で、温泉三昧を楽しんだものである。

オンドル式温浴は、地熱で暖められた地面にむしろなどを敷いて寝そべることによって湯治する一種の蒸し風呂。八幡平はこのオンドル式温浴の本場で、お湯に入るよりもこちらを目当てにやってくる湯治客が多い。後生掛、大深、澄川、赤川、銭川の各温泉がオンドル宿舎を併設していたが、「地熱で蒸ける温泉」をキャッチフレーズにしていた澄川は、後生掛の6棟についで5棟の宿舎があった。しかし、そのすべてが今は跡形もなく消えてしまったのである。

八幡平の温泉といえば、玉川温泉と後生掛温泉の人気に目を奪われがちだが、澄川と赤川、それに避難勧告を受け営業休止を強いられている下流の銭川温泉の3湯にも、全国各地に熱心なファンがいる。湯治客はいずれもそれぞれに好みの温泉を持っていてそこが極楽だと信じて疑わず、あまりほかの温泉に浮気をしないものである。今回の災害をもっとも悲しんでいるのは、長年通い続けてきた馴じみの温泉を失なった頑固な固定客たちではないだろうか。

八幡平における地滑り災害で温泉が被害にあったのは、今回が初めてではない。1961年に下トロコ温泉、1973年に蒸の湯温泉が被害にあっている。下トロコ温泉は銭川温泉より少し上流の熊沢川畔にあった硫黄泉の湯治場であったが、復活することなく今に至っている。また、八幡平最古の名湯とうたわれる蒸の湯は、オンドル小屋が十数棟建ち並び、集落のような大湯治場として栄えていたが、そのすべて(温泉ホテルを除く)が地滑りによる土砂により倒壊した。消滅した下トロコ、蒸の湯(オンドル小屋)に続いて、澄川、赤川両温泉も同じ運命を辿ることになろうとは。

ただ今回の地滑り・土石流は、温泉は埋もれてしまったが、災害の規模のわりに奇跡的に人的被害のなかったことがせめてもの救いであった。二次災害発生の危険が回避され、これ以上の被害が出ることのないよう祈るばかりである。

(「秋建時報」平成9年7月)
# by tabunoki28 | 2008-06-15 01:28 | 温泉
八郎太郎伝説と「八郎の宿」
2006年の秋から冬にかけて、秋田県における環境共生型地域づくりに関連した報告書作成のため、八郎太郎伝説について調査をする機会があった。
八郎太郎伝説とは、十和田湖、八郎潟、田沢湖を舞台に繰り広げられる湖沼主戦争の物語だが、この話はまた、青森・秋田・岩手の3県にまたがるスケールの大きな三湖伝説としても知られている。ただし、三湖伝説は広い地域に散在していた数多くの断片的な物語や後日譚などが集められ、後に一編の物語として人為的に仕立て上げられたものである。

三湖伝説では田沢湖の辰子姫と恋仲になった八郎太郎は、毎年冬の間は田沢湖で暮らすようになり、そのため八郎潟は冬は凍結して年々浅くなり、田沢湖は深い不凍湖になったのだとされている。この筋立ても、もともとは独立した物語であった辰子伝説を十和田湖(南祖坊と八郎太郎)や八郎潟における八郎太郎伝説と結びつけたものといえそうだ。

ただ今回、江戸時代の古い文献を調べてわかったことだが、八郎潟(八郎太郎)と田沢湖(辰子)との結びつきは意外に古く、元禄年間(1688~1703)の編纂とされる『吾妻むかし物語』では、八郎の棲み家は仙北郡の潟(田沢湖)にもあり、1年おきに両湖の間を往来するとある。寛政9年(1797)に著された『津軽俗説選』でも、春彼岸の中日に冬の潟(田沢湖)より八郎潟に来て、秋の彼岸の中日には戻るとあるので、少なくとも江戸時代の後期には、田沢湖にも龍女がいて、八郎が通っていたという話が人口の膾炙にのぼっていたようだ。

そのことを裏付けるように、嘉永年間(1848~1858)編纂の『絹篩(きぬぶるい)』には、八郎潟から田沢湖までの道筋に八郎太郎が宿泊する「宿」があると記されている。今回の調査で興味深かったのは、八郎太郎が辰子のもとへ通い婚する際に立ち寄った「八郎の宿」と呼ばれるこうした家が、現在も何ヵ所か残っていることであった。

大仙市(旧協和町)船沢の菅原家は、現当主より5代前の七右衛門という人が当主の時に八郎太郎の定宿であったという。ある時、寝姿を見てくれるなとの願いをきかず、七右衛門の老母(女中ともいう)が八郎太郎の寝姿を見たところ、とぐろをまいた大蛇の姿になっていた。それ以来、八郎太郎は七右衛門家に立ち寄らなくなったという。ここで語られる「見るなのタブー」は伝説や昔話の類型のひとつで、寝姿を見てしまって以降、家運が傾いてしまうということも含めて「八郎の宿」伝承では共通している。八郎太郎が宿をとったころの菅原家は、近隣では並ぶ者のいない大地主であったというが、「八郎の宿」の多くはその地域の旧家であることも共通項で、各家とも話の筋は同工異曲だ。

大仙市土川の佐々木家には、八郎太郎が伝授したという突き目に効く目薬が伝わっている。実際に見せてもらったが、うす茶色の粉末の薬で、当主か相続人が作ったものでなければ効かないとされ、現当主の祖父が蜂に目を刺された時、この薬をつけて治ったという。佐々木家のほか大仙市大浦の高橋家でも、八郎太郎が宿をとったお礼として授けたという痔の秘薬が伝えられている。

仙北市北沢の仙波家も八郎太郎の定宿で、屋敷の砂は田沢湖白浜の砂と同質のもので、八郎太郎が田沢湖からの帰路、身体から落としたものだという。北沢集落の西はずれには八郎淵と呼ばれるところがあり、八郎太郎はここを水鏡にして身支度をし、足を洗ったと伝えられている。昔は今よりもっと深く大きな淵で、ここに落ちると3年以内に死ぬといわれたとか。

八郎太郎が田沢湖に辿り着く前の最後の宿として泊まったのが仙北市西明寺の赤坂吉右衛門家といわれている。吉右衛門家は肝煎りを勤める豪農で、この家に毎年決まった日に宿をとる旅の若者(八郎太郎)がいた。若者は「私の寝姿を見ないでくれ」と言って休んだが、家人が約束を破ってその姿を見ると、大きな蛇が梁を枕にいびきをかいて寝ていた。翌朝、若者は約束を破ったことをなじり、二度と吉右衛門家を訪れなかった。その後吉右衛門家は家運が次第に傾き、桧木内川の洪水で流されるなどして、ついにその後が絶えたという。今、桧木内川左岸の吉右衛門屋敷といわれる場所には、吉右衛門家の氏神であった稲荷大明神と竜神・八郎を合わせ祀った小さな祠だけが建っている。

八郎太郎が旅人に姿をかえて泊まったとの伝承が残る家は、私が今回調査した以外にも数ヵ所あることが知られており、その道筋をたどると八郎潟―新関(旧昭和町)―久保田(今の秋田市中心部)―仁井田(秋田市)―船沢(旧協和町)―上淀川(旧協和町)―大浦(旧神岡町)―土川(旧西仙北町)―中川(旧角館町)―西明寺(旧西木村)―田沢湖というコースになるようだ。

八郎太郎が田沢湖にやってくるのは毎年決まっていて、霜月(旧暦11月)9日の夜であった。桧木内川から潟尻川を上ってきて、辰子の棲む田沢湖に入るこの日、湖畔の潟尻集落の人々は氏神の明神堂に集まってお祭りをした。この時、八郎太郎が湖に入る水音をうっかり聞くと命がなくなるといわれていたので、夜を徹して酒を飲んで歌い騒いだものという。

潟尻明神堂(浮木神社)では現在も11月9日に霜月祭りが行われている。昭和30年代ころまでは旧暦で行われていたので、吹雪の夜に一晩中お堂にこもって飲んだり歌ったりしたこともあったというが、現在はかつてのように大騒ぎすることはなくなった。昨年、私が調査のために訪れた時には、神主さんが祝詞をあげた後に直会をして、2時間ほどで解散する静かな祭りとなっていた。ただ、潟尻集落の人々には今でもこの日の夜に八郎太郎がやってくると信じられているようで、居合わせた男の子がお父さんらしき人に促されて、(音を聞かないように)耳をふさぐ仕草をしていたのが印象的であった。

「八郎の宿」とは何か、何を意味しているのか、はっきりと指摘することは難しい。ただ「八郎の宿」を伝承する人々に接して感じたのは、八郎潟の主である八郎太郎は尊い神であり、それとの関わりは誇りであるという思いを誰もが抱いていることであった。

八郎太郎は無敵の怪力を持ちながらどこかぼうようとしていて、荒々しくも素朴な大地の精霊としての純真な若者のイメージがある。その人間くさいイメージは、永遠の美を求めて龍に変身した田沢湖の辰子とも共通する。そしてこの物語が生まれ今日まで伝えられてきた背景には、大自然に対する畏怖心や、龍神信仰、山岳信仰、水の信仰など日本の古くからのアニミズム的な民間信仰が背景にあるように思える。それが架空の存在でありながら身近で親しみをもった存在として、八郎太郎が今も秋田の人々の心の中に生き続けている大きな要因なのであろう。
田沢湖の潟尻明神堂(浮木神社)

(「秋建時報」平成19年7月)
# by tabunoki28 | 2008-04-23 13:20 | 民俗・伝承
冬の湯治場で
横手市からJR北上線で約30分。秋田県境に接し、奥羽山脈の山ふところに抱かれた岩手県湯田町は、町内を火山帯が走り、どこを掘っても温泉が湧くといわれるだけあって、7つの温泉地が点在する東北でも指おりの湯の郷(さと)だ。中でも、北上線をはさんで南北に等距離にある湯本と湯川は温泉街を形成し、古い歴史を持つ温泉郷の代表格だ。北の湯本温泉は設備のよいホテルや飲食店もある温泉町だが、南の湯川温泉はいまだに自炊兼用の湯治旅館が多く、秋田・岩手両県の農民が集う昔ながらの湯治場風情を残している。岩手県内でも有数の哀雪地帯、冬の湯川温泉を訪ねてみた。

湯川温泉には現在10軒ほどの宿があり、北上川に注ぐ和賀川の支流、小鬼ケ瀬川に沿って下流から出途ノ湯、中ノ湯、奥ノ揚の3ヵ所に分かれ、それぞれ泉質も異なっている。この中では中ノ湯が湯川温泉の中心で、狭く深い渓谷にのぞんで湯宿が並び、川の流れの上に宿と宿を結ぶ渡り廊下が架かっている。周囲の森も渓谷も雪をかぶって静寂そのもので、冬の湯川温泉ならではのなかなか情趣ある眺めだ。中ノ湯からさらに500メートルほど上流が奥ノ湯で、宿に選んだのはここにある6階建ての大きな湯治旅館、T旅館。

都市部の温泉旅館はシーズンオフである冬の季節は客が減少し、その対策に苦慮するのが普通だが、東北地方の湯治旅館は反対に混み合うところが多い。特に人気の高い旅館は、農閑期である冬場に湯治客が大勢押しかけて、1泊限りの旅行者が入り込む隙間がなくなるほどの混雑ぶりになる。T旅館も何度が宿泊予約を断られ、今回は3泊4日、それも1人1部屋だと泊めてくれないので友人を同行してようやく予約をとりつけることができた。

T旅館は近代的な外観とはうらはらに、一歩館内に入るとそこはもう湯治旅館独特のほんわかと気のおけない雰囲気が広がっていた。ロビーにはフロント隣の売店からはみだした漬け物や乾物などの食料品が並べられ、お年寄りたちがソファーに座ってくつろいでいる。車から蒲団と炊事用具をおろし、手押し車に乗せてエレベーターで運ぶ。

通された客室は6階のきれいな8畳の和室。テープルの上の旅館案内には、「1、2、3月は混み合いますので、4、5月のご利用をお勧め致します」とある。おそらく冬期間などの農閑期以外は一般の旅行者用の部屋なのだろう。これで1泊2500円とは格安だ。とはいうものの、ここ数年来、温泉といえば木造のオンボロ宿の自炊室にばかり馴れ親しんできたので、かえってきれいな部屋だと落ち着かない。木造3階建ての旧館のほうが私の趣味に合っている。

旧館は昔ながらの湯治旅館そのままのたたずまいで、部屋のドアは引き戸、階段もギシギシ音をたて、炊事場はゴチャゴチャして生活の匂いが充満している。どの部屋も湯治客で満杯状態のようで、大部屋の前にはスリッパがズラリと並んでいる。T旅館の収容人員は200名ほどというが、この時期は旅館全体が長期滞在の湯治客に占領されているようなものだ。風呂からあがると早速夕食づくりにとりかかる。

ガス釜のほかにガスコンロ、大型冷蔵庫、大型湯沸かし器も備え付けられた炊事場は清潔で使いやすい。野菜をきざんでいたら隣で食器を洗っていたおぱあちゃんが「あんだがだ農家の人?」と聞いてきた。宿泊客のほとんどが長期滞在のお年寄りか農家の人たちという中で、あまり農業に従事しているようには見えないが、かといってサラリーマンがこの時期に自炊湯治に来るはずもないから、おばあちゃんには私たちが奇妙に映ったのだろう。

夏のお盆のころでも、ゴールデンウィークでもないこの時期に、自炊湯治にやってくるサラリーマンが現れて、湯治のおばあちゃんたちに「あんだの会社どご?」と聞かれるようになったら面白い。普通の会社員が1年に1度、自分で決めた"サナブリ休暇"を取り、湯治に気軽にやってくるような世の中になったなら、日本はもっと余裕のある国になることだろう。

翌朝、納豆ご飯になめこと豆腐のみそ汁、たまご焼きをつくり、食べ終えて文庫本を読んでいたら、従業員のおばさんが大根の柿漬けを盆にのせてやってきた。お茶を飲みながら世間話に興じる湯治客のために、自家製の漬け物を配って回る旅館の心遣いがうれしい。大金を使うことなく、低料金でゆっくり保養し、心身を蘇生できる湯治場の形態が、日本、特に東北のリゾートの原点かもしれない。東北地方は実はリゾートの先進地なのではないか…。ガッコをポリボリ食べながらそう思った。

(「秋建時報」平成9年3月)
# by tabunoki28 | 2008-03-04 18:59 | 温泉
旅する胞子 菅江真澄
今から200年前の天明3年(1783)30歳の時、生国三河を出奔、依頼46年間の生涯を旅に生きた男がいた。菅江真澄、本名は白井英二秀雄というこの稀有な旅人は、40余回の正月を全て雪の中で迎え、のちに「菅江真澄遊覧記」としてまとめられる膨大な旅日記を残している。その足どりは信州・越後から、出羽・陸奥の各地を巡歴し、蝦夷地にも渡る広範囲なものであったが、享和元年(1801)以降は秋田領内に留まり、76歳で秋田・角館で没した。

雪国の庶民の暮らしや年中行事、旅芸人や山人の生活、かたわらを通り過ぎる男のくちづさむ唄のひと節、農家の軒で語り合う娘たちの表情、それら何げない日常を克明に記録していった。

詳しい出自や、旅に出るに至った動機など未だに解明されてはいず、たった一枚残っている肖像画にもみられる黒頭巾の着用など、この旅人には謎めいた翳りが揺曳している。しかし私が興味を注ぎ、深い共感をよせるようになったのはそれら韜晦的な神秘性などではなく、真澄の視線が照射する世界の豊饒さと、その世界と一定の距離感を保ち続ける眼差しの位置の確かさであった。
遠く万葉の高市黒人の羈旅歌(きりょか)の感傷性と、松浦武四郎にみられる強引なまでの旅の推進力とに加えた強靱でやさしい眼差しの意味するものは、単なる物好きの歌詠みの旅行者を超えている。

歩きながら通り過ぎて行く度に無限に喪ってしまう世界や想い。視線をやりながら通り過ぎた光景、葉の揺れ、こぼれる光、他人の肌。真澄はまるで個人映画の作家が、置き忘れてきた意識を回収するするためにカメラを廻すが如くに、喪われてしまう運命だけのことば、ひとつひとつの眼差し、感情をしっかりと書き留めてしまう。それら日常生活の微々たる機微を掬いあげる作業の繰り返しを通じて、彼は「不透明で視えにくいものを視る明視力」を旅の途上で実験し培っていったのだった。

真澄は世話になった家や、何日も逗留した家に旅日記の下書きを贈っていった。―Station To Station―風にのってやって来る植物の胞子のような一生ではあったが、彼の種子はこの秋田の地にすっかり根をはやし、人々の記憶の底に生き続けている。

(object magazine『遊』/昭和55年(1980)4月)

# by tabunoki28 | 2008-02-02 00:32 | 菅江真澄
E.T.- VISITOR=観光ナマハゲ
『E.T.』は、ジョン・ウィリアムズの音楽が相も変わらず大仰にがなりたて、主人公をはじめとする少年たちの一点を凝視するカットが頻繁に出てきてうんざりさせられる、スティーブン・スピルバーグのワンパターン映画なのだけれど、ハロウィンの仮装行列のシークエンスを中心に据えたことで、米国の子どもたちの特別の日の気分を感じとることができ、興味深かった。男鹿半島生まれの僕が子どものころ経験した、「ナマハゲ」が訪問してくる大晦日の夜の形容しがたい感情(畏れと期待がごちゃまぜになったような非日常的な光景)と、ハロウィンの夜に米国の子どもたちが抱く感情とは似通っていると思ったからだ。

「ナマハゲ」は鬼の顔貌をしてはいるが、蓑笠や覆面、仮面など様々に仮装した少年や若者たちが歳神として正月に家々を訪ね、人々に新年の福を授けるという習俗―民俗学でいうところの「小正月の訪問者」の典型に他ならず、また遙か彼方、常世、沖縄ではニライカナイといわれている他界から、この世に魂を送り届ける神―“マレビト”でもある。何かしら得体の知れぬ予感と空想力を刺激するハロウィンの日の訪問者としてのE.T.もまた、マレビトの一類型ではないか、と考えてみたのだ。

とはいうものの、映画のラスト近くにNASAのワゴン車のバックドアに立つE.T.は、慈愛をたたえた神としての趣となり胡散臭さが漂い始めてくるので、せっかくのハロウィン気分もそがれてしまう。ここで、先頃秋田でもようやく自主上映されたニコラス・ローグ監督/デビッド・ボウイ主演の『地球に落ちて来た男』をひきあいに出すと、胡散臭いマレビトとしてのE.T. が見えてくる。

地球に置き去りにされたひとりぼっちの異星人という設定は同じでも、この2つの映画は全く異なる肌ざわりをもっている。E.T.は地球人(の子どもたち)との心の交流を置き土産に、ハロウィンのかぼちゃちょうちんのお化けのような宇宙船でホーム(生まれた星)へ帰って行くのだが、『地球に落ちて来た男』のデビッド・ボウイ扮するニュートン氏は、地球人とコミュニケイトできないまま、永遠に歳をとることのない地球上の星屑と化す。『地球に落ちて来た男』ほど、深い哀しみと絶望感を表出している映画も珍しいが、それは帰れぬ訪問者(VISITOR)=マレビトの姿を描いているからだろう。スピルバーグが『E.T.』に込めたメッセージ「We're not alone」ではなく、「We're just alone」と低く呟いている映画だからだろう。

『E.T.』から『地球に落ちて来た男』のような故郷へのノスタルジーにこがれる異星人―帰れぬ訪問者(VISITOR)―としての哀しみを取り除いてみると、お子さま向けキャラクター商品としてのE.T.だけが残る。それは、男鹿半島のあちこちに季節を問わず出没し、写真撮影に応じながら観光客に愛想をふりまく「観光ナマハゲ」―現代の形骸化した小正月の訪問者(VISITOR)―魂を持たないマレビトの姿にも似ている。

 E.T.  

          (マイナス)

VISITOR(地球に落ちて来た男)
          (イコール)
 
観光ナマハゲ


(「NEW FOLKRORE EXPRESS」昭和58年(1983)3月)
# by tabunoki28 | 2008-01-27 00:56 | 民俗・伝承
映画『女中っ子』と『旅の重さ』
先日、近所のレンタルビデオ屋で、ナマハゲが登場する珍しい劇映画を借りて見た。タイトルは『女中っ子』(1955年制作)という。秋田県の寒村から上京してきて、東京世田谷の住宅地で住み込みの女中として働く女性と、ヒネクレっ子の次男坊の心の交流を描いており、東北の素朴で芯の強い女性を演じた左幸子の溌剌とした演技と、田坂具隆(1902~1974)監督の丁寧な演出が印象に残る日活映画だ。ただ、ナマハゲの描写に関しては首をかしげる点があって、それが映画全体を安っぽくしているような気がした。

女中の故郷は秋田県の内陸南部の湯沢市(旧雄勝町)あたりの設定になっていて、実家の家業はこけしをつくる木地屋。だが、そもそもナマハゲ行事は秋田県の内陸部では行われていないうえ、湯沢地方だけが産地の木地山こけしを作っている家に、ナマハゲが訪問することは、万にひとつもありえないことである。

私が中学生のころだったか、この映画がNHKTVで放映されたことがあり、それを見た私の母がナマハゲ登場シーンの不自然さに憤っていたことを思い出す。とはいっても、そう思うのは私がナマハゲの本場男鹿半島の生まれで、実際にこの行事を体験しているせいなのだろう。郷土食のキリタンポにしたって、他県では秋田県全域で食べられていると誤解している人のほうが多いというから、ナマハゲもまた然りであろう。

こうした伝統文化や民俗行事を映画で取り上げる時は、奇異な点を強調するあまり実際の行事の場所や時間、決まり事などを一切無視し、撮影側の都合だけで行事の一部分だけを切り取ってしまうことが珍しくない。TVでは現在もヤラセも含めて普通に行われている行為で、脚本家、演出家をはじめとするスタッフの勉強不足と傲慢さはある種犯罪的ですらある。

いつだったかも、男鹿市で中継録画した全国放送の民謡番組で、男鹿の四季にからめて八幡平の山村の作業唄である「湯瀬村っこ」が唄われ、ナマハゲ行事に続けて「西馬音内盆踊り」が演じられて唖然としたことがあった。それらに比べたら『女中っ子』でみられるナマハゲ描写はまだましなほうかもしれない。

原作は芥川賞作家・由起しげ子の同名の小説で、私は映画をビデオで見たあと図書館から借りて読んだのだが、原作では女中の故郷は秋田ではなく山形になっていた。映画ではどうして秋田に変更したのだろうか。へんてこなナマハゲ君をわざわざ登場させるためでもなかろうに…?

ところで、「女中」というのは現代では差別用語なのか、この映画の再放映、再上映の話はほとんど聞いたことがない。田坂監督の『女中っ子』から20年後の1976年に歌手の森昌子主演でリメイクされたのだが、その時は『どんぐりっ子』というタイトルになっている。私はこちらは未見だが、リメイク版では主人公の故郷は原作通り山形県になっているそうだ。

『女中っ子』を見た数日後、今度は明徳館(秋田市立中央図書館)のAVコーナーでみつけた『旅の重さ』(1972年制作)という映画(ビデオ)を借りた。明徳館には、溝口健二、黒澤明、小津安二郎、成瀬巳喜男、木下恵介、今井正…など、1940年代~50年代の日本映画の黄金時代のビデオがどっさりあるので、大変重宝している。本当は久しぶりに溝口健二の名作でも見直そうと思って立ち寄ったのだが、何の気なしに手にとった『旅の重さ』が妙に気になった。 

封切り当時に見ているが、34年前なのでほとんど忘れていたこの映画を何で見ようと思ったのか。秋田の冬空にうんざりしていたからか。四国、それも愛媛県の南伊予地方が主な舞台なので、若いころに旅した南予の風光が目の前に甦り、無意識のうちに映画に出てくる夏の海のきらめきを見たくなったのだろうか。

それにもうひとつ、その前に見た『女中っ子』が、無意識の領域で私に『旅の重さ』を借りるように働きかけたのかもしれない。なんとかつながり、という偶然は実際におこるもので、実はこの映画の原作である小説『旅の重さ』の原稿は、『女中っ子』の原作者である由起しげ子の書斎で発見されていたのだ。この事実は『旅の重さ』のビデオを見た後、原作者の素九鬼子(もとくきこ)をネットで検索して初めて知った。

ペンネーム素九鬼子という人が『旅の重さ』を書いたのは1964年で、それを由紀しげ子に送った。筑摩書房の編集者が由起しげ子の死後、書斎で遺稿を整理していてその原稿を発見。出版を思い立った編集者は著者の素九鬼子を新聞広告を通じて探したりしたが、とうとう見つからずに見切り出版した。出版の2年後、ようやく素九鬼子本人が名乗り出るという“物語”があったのだ。このまるで“小説のような”エピソードは結構有名らしいが、今回『旅の重さ』を再見するまで知らなかった。

母と2人きりで生活していた16歳の少女が日常生活を捨て、四国をお遍路さんのように歩く一人旅に出て、たどり着いた海辺の村で行商人の父親のような男と生活を共にするという『旅の重さ』のストーリーは、今の時代では牧歌的すぎで現実感に乏しく、旅の先々から「ママ」に向けて書いた手紙という構成も古くさく感じられるのは否めない(何しろ書かれたのが1964年だから!)。

でも映画としては、日本のクロード・ルルーシュとも呼ばれた映像派の斎藤耕一監督作品の中では、『約束』『津軽じょんがら節』などと並んで最良の部類に属するものではあるだろう。この映画の主役はオールロケで撮られた四国南予の風光であり、きらめく夏の海は、冬の秋田で暮らす私の憂鬱を一時忘れさせてくれるに十分だった。

オーディションで選ばれ、この映画がデビュー作となった高橋洋子は、まだ幼さの残るヌードを披露し、いわゆる体当たり演技で頑張っていて、好感がもてる。その後、1981年の中央公論新人賞を受賞した『雨が好き』で話題になり、1983年には自ら監督・主演し同名の映画を作ったところまでは覚えているのだが、それ以降の活動はほとんど知らない。現在、どうしているのだろうか。

また、この時にオーディション2位 だったのが現在も女優として活躍している秋吉久美子(小野寺久美子)で、作品の終わり近くに入水自殺してしまう文学少女役を演じていて、出番は少ないがキラリと光る感性をみせ、忘れがたい印象を残す。オーデションで高橋洋子と甲乙つけがたかったので、原作に登場しない人物を彼女のために特別に設定したのだと何かで読んだ記憶がある。この映画の主人公役は高橋洋子で正解だったとは思うが、秋吉久美子だったらどんな風に仕上がっていただろうか。それも見てみたかった気がする。

ところで、『旅の重さ』でセンセーショナルに登場した素九鬼子は、1974年~1977年の短期間のうちに5編の小説を発表した後、なぜか文壇から姿を消してしまった。現在も消息は不明のようである。

(「秋建時報」平成17年4月)
# by tabunoki28 | 2008-01-19 15:29 | 民俗・伝承
湯っこ唄っこ
「ふだん着の温泉」というテレビ番組を見ていたら、福島県浜通り地方のある温泉に集う人びとが、お風呂場で民謡を歌いあう光景が紹介されていた。壁ひとつ隔てた女湯と男湯で、湯治客同士がお湯につかりながら民謡の掛け合いをするのだが、私も東北の温泉めぐりをしていて、こうした場面を何度か体験している。 テレビで紹介された温泉は男女別浴だったが、今もしぶとく残っている湯治場の混浴のお風呂場で、即席の民謡大会が始まることも珍しくないからだ。
 
じいさん、ばあさんが一緒に手拍子をとりながら地元の民謡を歌う和気あいあいとした光景は、東北の温泉場ならでは。温泉と民謡は私の2大好物なので、それを同時に味わえるのだから、こんなに楽しくうれしいことはない。
 
岩手県の奥花巻には、毎年二月の節分のころ、湯治客の演芸大会を催している宿があって、数年前、それに合わせて宿泊したことがある。川べりの露天風呂に大会に参加する歌い手のおばさんたちがやってきて、本番前の練習ということで、次々に得意ののどを披露する。浴槽の縁に腰掛けて、手拍子をとりながら聴いた『木挽唄(こびきうた)』『牛追い唄』『沢内甚句』などの心にしみ入るような南部民謡は、今も忘れられない。

私は聴くだけでなく歌うのも大好きなので、お風呂場でよく民謡をうなる。もちろん我流だから人にきかせるためではなく、あくまで日ごろのストレス発散と自己満足のためだが。
夜中に湯治客が寝静まってから、お湯を独占して一人で歌うのもいいものだ。天井が高く密閉されているようなお風呂場は、エコーがかかってよく響く。それに、身体が暖まると声がよく出るようになり、湯気の湿り具合がのどをなめらかにするから、歌う環境としてこれ以上の場所はない。 

数少ないレパートリーの中から、仙北郡の温泉では仙北民謡、津軽に行ったら津軽民謡、といったふうに、場所ごとで歌う曲を変えてみたりする。それぞれのお国ぶりがあらわれている「ゆっこ」と「うたっこ」の相乗効果のせいか、歌っているうちにその土地に昔から住んでいるような気分になるから不思議だ。

(秋田魁新報 平成10年3月)
# by tabunoki28 | 2007-12-11 23:41 | 民謡
見えないものを見る
秋田市手形にある秋田大学付属鉱業博物館は、学術的な研究施設といった印象が強いためか、秋大生さえ訪れるのは希で、いつも館内は閑散としている。しかし、鉱物の所蔵資料が質、量ともこれだけ充実している博物館は他にない。ここへ来ると陳列棚に並ぶ宝石や鉱石を見て回るほかに、必ず覗いてみるものがある。

まず「偏光顕微鏡」。普通の光は進行方向に直角なあらゆる面で振動しながら進むが、偏光とはそのあらゆる面の中のひとつの面にのみ沿って進む光のことをいう。鉱石の薄いカケラを偏光顕微鏡で覗くと、自然の元の時とは違う結晶を見ることができる。

次は「ミネラライト(紫外線照射器)」。暗箱を覗きボタンを押して紫外線を照射すると、その中に置かれている万解石、ウェルネル石、オパール、珪酸亜鉛鉱などが、鮮やかな緑や青色に輝く。自然光や蛍光灯をあてていた時には何の変哲もなかったそれらの鉱石たちがそれぞれ異なる固有の光を放ち、ある種のものは紫外線を切ってもかすかな色で輝き続ける(これを"燐光"という)。

私の友人はこれを見て、「ここにも星の世界がある」と感想を述べたが、私はそれとは別に次のようなことを考える。
「私たちはいつも鉱石にとっての自然光のように世界を見ている。しかし、鉱
石にとっての紫外線のような視線で世界を見ることができないものだろうか。普段は見えないものを見るため、偏光のような視線を獲得できないものだろうか」と。

私はそうした眼差しを持つ2人の偉大な先人を知っている。1人は民俗学者の故宮本常一。旅行した日数は約4000日、その間に通過した町と村は約3000ほど、その中で自分が腰を落ち着けて話を聞いた箇所は800もある。そして自分が泊めてもらった民家は約1000軒あった。宮本常一ほど日本中を歩いた民俗学者はいない。彼の著作に次のような文章がある。

「目あたらしいということは、目ききがかわっているということだけでなく、今まで気付かなかったものの中の意義ある事実に気付くこともある。つまらないと思って見過ごしたものをもう一度丹念に見直すと、意外なほど深い意味を持っていたり、時には美しさを持っており、生きることの法則のようなものすら見つけることがある」

普段何気なく見過ごしているものや気がつかないでいるものの中に隠されているとても大切な何か。それがちょっとした角度の違いや光線のあてぐあいで姿を現わす時がある。それを見つけるためのヒントや方法を宮本常一は教えてくれる。彼こそ、事物を偏光のように照らし、見えないものを見る視線を持った人だったろう。

そしてここにもう一人、ミネラライトにあてる紫外線のような眼差しで世界を見つめた人がいる。その人の名は菅江真澄。故郷三河(現愛知県)を30歳で出てから、信濃、奥羽、蝦夷地を巡歴し、76歳で秋田・仙北で亡くなった江戸時代後期の旅人、文人である。いや、正確には観察記録者と呼んだほうがいいかもしれない。

真澄には、かつて八郎潟で行ゎれていた氷下洩網漁を取材した『氷魚の村君』という著書(文章と図絵からなる観察記録)があるが、そこで彼は地元で"きつねたて"と呼ばれている蟹気楼を見ている。雪原の彼方に現れては消える唇気楼を書き留めた文は、ミネラライトの暗箱の中で淡く残光を放つ燐光のようだ。漁をする人々を丹念に描き留めた図絵は、紫外線をあてられた鉱石のようだ。

真澄の紀行文を読むと、旅の途上で眼に映じる全てのものに光をあて、それを独自の光沢で輝かせる彼の眼差しの強さと柔らかさに思い至ることが多い。そして何よりも、宮本常一と菅江真澄の2人は旅の達人であった。旅の途上で見えないものを見る明視力を培い、生涯成長し続けたのである。そうした意味でこの2人にとっては旅が学問の場であり、一生学ぶ姿勢をくずさなかったともいえる。それは私たち中高年にとっての生涯学習の取り組み方や、生きていくうえでの指針とも重なるものだ。

(「秋建時報」平成11年5月)
# by tabunoki28 | 2007-11-14 23:27 | 菅江真澄
小さな旅
船、飛行機、列車、バス。乗り物なら何でも好きだが、中でも路面電車が一番好きだ。旅の感覚は何より移動の感覚だと思う。だから、町と町とを結び、路上を移動する路面電車は、ぼくにとって街暮らしの日常からたやすく非日常空間=旅に連れていってくれる便利な乗り物なのだ。とはいっても、秋田市に路面電車が走っていたのはだいぶ以前のことになる。
秋田-土崎間の市電が廃止されたのが昭和40年で、今はもう、電車が通っていたことを示す痕跡はあとかたも残っていない。ただ、土崎港町・秋田市合併50周年を記念して発行された『土崎史誌』に将軍野停留所の写真が載っていて、そこに写っている三本松だけは、当時の姿のまま残っている。

数年前、この停留所跡の近くに住んでいたぼくは、車道にはみ出している三本松を見るたびに、ここから電車に乗って秋田の街に一杯飲りに出かけられたらいいな、と思ったものだった。
そんなわけで秋田で路面電車に乗るのはかなわぬ願いなのだが、時々、無性に電車に乗りたくなることがあって、そんな時は秋田駅からのワンデイ・トリップ、つまり普通電車での日帰り小旅行にでかけることにしている。

ぼくのように組織に属さず、フリーランスの立場で働いている人間は、毎日が仕事日であり、休日でもあるようなものなので、生活のメリハリがなかなかつかない。そのため、会社勤めの人たちとはまた違った意味での気分転換が必要で、電車に乗っての日帰り小旅行は、日々の欝屈した気持ちをほぐす気晴らしにもなる。そして、この小旅行におあつらえむきのチケットが、JR東日本秋田支社から発売されているので迷わず利用している。その名も「小さな旅」フリー切符。
2000円の料金で秋田県内のJR全線と、北は青森県深浦駅から南は山形県酒田駅、東はほっとゆだ駅(岩手県湯田町)まで普通電車一日乗り放題(ただし有効日は土・日・祭日)という格安切符だ。たとえば奥羽線大館駅まで秋田駅から普通の切符を買って往復すると、3780円かかるが、「小さな旅」フリー切符を使うと、およそその半額で済んでしまう。ただ、現在、JRが奥羽・羽越両線の普通電車に使用しているのは、座席がロングシートタイプの701系という電車。都会の通勤電車のような横座りのシートなので、車窓を眺めながら飲み食いするというオヤジ臭い旅行気分を味わえないのは淋しいが…。

ぼくがこの小旅行の目的地に選ぶのは、秋田市から日帰りできる範囲内にある郡部の中心地が多い。つまり、古くからその地域での交通・交易の要所として発展した小都市だ。県北部でいえば扇田(比内町)、鷹巣、米内沢(森吉町)、二ッ井など。由利地方なら前郷(由利町)、矢島、金浦、平沢(仁賀保町)、象潟など。県南部だったら長野(中仙町)、角間川(大曲市)、六郷、沼館(雄物川町)、十文字、浅舞(平鹿町)、西馬音内(羽後町)などといったところだろうか。        
中でもぼくが気にいっているのは扇田や浅舞、西馬音内などその地域の物資の集積地で、こうした町は今も定期市がたち、地域の人々が築きあげてきた歴史と文化、生活の匂いはまだ失われずに残っている。鉄道が通っていない角間川のような町は、最寄りの駅からバスで行く。ローカルバスにも独特の味わいがあるので、それもまた楽しい。

目的の町に着いたら、まずそば屋をさがす。秋田県はお隣の山形県、岩手県と比べそば屋が少ないので、おいしいそばに必ずしもありつけるわけではない。でも、昼日中、誰に気兼ねするでもなく、銚子一本を横にして食べるそばは、そこが何の変哲のない町食堂であってもいいものだ。
そば屋の次は図書館に行く。仕事を兼ねてその地域の郷土資料を閲覧するためだが、今はほとんどの町に図書館ができて、県立図書館にもない貴重な資料を所蔵しているところもあり、思いがけない収穫があったりする。

時間があれば郷土資料館などの文化施設を見たりすることもあるが、日が暮れる前には何はともあれ銭湯を見つけ、ひと風呂浴びる。古くからあった町場の銭湯は、どんどん廃業に追い込まれ、秋田県内の銭湯は現在34軒ほど、30年前の約7分の1に減ってしまったという。営業しているところの多くも後継者はなく、一代限りといわれている。そんなことから、今のうちに郡部の銭湯に入浴しておかなければ、という思いがぼくにはある。  
夕方の銭湯は、かつての「町の社交場」としての賑わいはもう見られない。それでも、時には民謡をうなりながら、のんびりと湯につかるお年寄りに出会ったり、町内の人たちの脱衣場での世間話を聞くともなしに聞いていると、束の間、日々の閉塞感から解放される心持ちになる。

湯からあがったあとは酒場をさがす。ほとんどいきあたりばったりなので、失望することもあるが、それでも別にかまわない。適当な酒場がなければ、食堂で飲むことが多い。たいした目的があるわけでもなく、貧乏でささやかな「小さな旅」には、銘酒居酒屋なんかより駅前食堂がふさわしいのである。

(「秋建時報」平成8年10月)
# by tabunoki28 | 2007-10-08 16:44 |
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