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小川監督と菅江真澄

ここ数年、テレビ、雑誌、インターネットなどのメディアで菅江真澄がひんぱんに取り上げられるようになった。そのため、秋田県立博物館の菅江真澄資料センターには、一般見学者以外にも、館蔵資料の撮影や借用などの用件で記者やカメラマンなどが来館する。先日も、菅江真澄の記録映画の下準備のため、東京の映画制作会社の方がみえた。会ってみて驚いた。その方は三里塚闘争などの記録映画で知られる故小川紳介監督のチーフ助監督をつとめていた飯塚俊男さんだったからだ。飯塚さんには、一度きり会っただけなのに、今でもその時のことは鮮明に覚えている。

15年も前になるだろうか。今にして思えば小川監督の遺作となった「1000年刻みの日時計」という映画の自主上映に向けて、秋田で試写会が行われたことがあった。その際、小川監督と飯塚さんも来秋し、上映終了後、当時ぼくが経営していた飲み屋に一緒に来てくれたのである。上映会場からぼくの店に流れてきたのは、試写会の主催者だった書店主の友人と、秋田大学の映画研究会の学生が数人だけだったように記憶している。

映画が好きなぼくにとって、小川紳介は尊敬する映画監督のひとりであった。だからぼくと友人は、とにかくあの小川監督と会って話ができるということだけで興奮しているのに、映研の学生は「エッ、このオッサン、そんなにエライ監督なの?」といった風でポカンとしていた。彼らにしてみれば、三里塚闘争など赤ん坊のころの話だから無理もないことであったろう。ところが、実際に会って話をしてみた印象も、数々の記録映画から勝手に想像していたような闘う映画作家などという風貌や物言いとは無縁の、どこにでもいるおしゃべり好きなオッサンそのものなのである。ただ、普通のオッサンと違うところは、話の内容が徹頭徹尾映画のことばかり、ということだった。 

その時に話した内容を、今では断片的にしか思い出せないが、ロッセリーニのイタリアン・ネオリアリズモやゴダールのヌーベルバーグは当然としても、アメリカのハリウッド映画やルーカス、スピルバーグからカルト的な作品まで、とどまるところを知らなかった。小川監督が語る映画は全く観念的ではない。フィルム編集を、カット割りのリズムを、照明のあり方を、カメラワークを細密に論ずるのである。それを、まるで映画が好きで好きでたまらない子供のように語る。こんなにも映画が好きな人がいる! そのことにぼくはあっけにとられ、同時に大きな感動を覚えたのだった。

小川監督はドキュメンタリー映画の作家としての枠組みで語られていたが、1980年代に作られた「ニッポン国・古屋敷村」、 「1000年刻みの日時計」では、ドキュメンタリーとかフィクションとかの境界を超えて、全く新しい映画の領域に踏み込んでいた。そこでぼくは、劇映画を撮る予定はないのかとか、記録映画における虚と実のバランスとはなどと、随分ぶしつけな質問をしたことを覚えている。そんな生意気で失礼な質問にも、決して怒ることもはぐらかすこともなく真摯に丁寧に答えたくれたことも、ぼくを感激させた。あの夜ほど、自分の店の空間が好ましく思えたことはなかった。

平成4年(1992)、55歳の働き盛りで小川監督が亡くなった時は、何よりも映画的な損失のはかりしれない大きさを思った。と同時に様々な雑誌に載った小川監督の追悼文には、次のように必ず故人が無類の映画好きであったことが書かれてあり、ぼくの店で映画論をとうとうとしゃべり続けたあの夜のことが思い出されてならなかった。

「これまでわたしは多くの映画監督と親しくしてきたが、小川紳介ほどの映画好きの人をほかに知らない。会えばひたすら映画のことをものすごい勢いでしゃべった」(山根貞男)
「小川君とは岩波映画で一緒だった。話はあくまで映画である。小川君の語り口には一瀉千里の勢いがある。いかつい顔に似合わず美声だった」(黒木和男)
「初めて会って驚かされたのは、彼がいきなり、ロッセリーニの『イタリア旅行』の車の移動の話を始めたことである。それも、きわめて具体的な技術に関わる話だった。映画監督というものは、当然ながら映画が好きなものではあるが(といっても、中にはそうでない人もかなりいる)、それでも、自分が撮ったばかりの作品でないもののディテールを、いきなり話始める人というのは、滅多にいるののではない」(上野昂志)

小川監督率いる小川プロダクションは、徹底して商業主義を嫌ったため、特定のスポンサーも持たず、経済的にはいつも厳しい状態に置かれていたようだ。そうした中で、80年代には東京から山形県に活動の場を移し、上山市の農家に住みついて、自分たちによる米づくりから始め、稲の生育の過程を撮影しながら、長い時間をかけて村人たちの心のひだに入り込もうとした。その基本姿勢には、稲の一株一株に生命が宿ることを捕えた三里塚以来の土への執着を感じさせるカメラアイと、村の人間関係と習俗、伝承などへのフォークロアへの接近があったように思う。そしてそこからドキュメンタリーとも劇映画ともつかない「ニッポン国・古屋敷村」、「1000年刻みの日時計」という2本の傑作が生まれた。

小川紳介監督が生きていて菅江真澄を題材に撮ったとしたら、どんな映画になったただろうか…。考えるだけでワクワクしてしまうが、もちろんそれは今となってはかなわぬこと。ただし、小川プロが山形で培った映画づくりの方法論は、小川監督の片腕として仕事をしてきた飯塚俊男さんに引き継がれ、今度の真澄の映画制作にきっと生かされるに違いない。だからこれまでにない新鮮な真澄像の造形を期待していい。飯塚さんは2年がかりで撮影するとおっしゃっていた。今から完成が楽しみである。

(「秋建時報」平成13年〈2001年〉3月)

※註:菅江真澄の記録映画は2002年に完成し、「菅江真澄の旅 いではみちの奥見にまからん/全6巻」として紀伊國屋書店からビデオが発売されている。
by tabunoki28 | 2012-03-10 19:36 | 菅江真澄