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温泉で出会った守り神

岩手山(2038m)は、岩鷲山、南部富士、南部片富士などの呼び名があることからもわかるように、見る角度、移動する速度によってまるでひとつの山でないかのように変化する。岩手県の八幡平側から眺めると、盛岡や雫石方面から見る均整のとれた穏やかな表情とは異なり、西側の屏風尾根が荒々しい風貌で迫ってくる。

松川温泉は、この岩手山の八幡平側北西麓にくいいるように、東八幡平温泉郷から8キロほど奥に入った海抜800mのところにある。ホテルやペンションが立ち並ぶリゾートエリアの東八幡平の湯というよりは、岩手連峰を挟んで相対する網張温泉や滝の上温泉などと同じく岩手山麓の湯場としての印象が強く、岩手県の盛岡市以北では最も湯治場風情を残している温泉だ。

宿は3軒あり、松川渓谷沿いに下流から松楓荘、松川荘、峡雲荘が飛び飛びに離れて建っているので、それぞれが一軒宿としての味わいを持つといってもよい。私が泊まるのはそのうちの松楓荘。ここには内風呂、露天風呂のほかに、松川の渓流をはさんだ対岸に天然の一枚岩をくり抜いた洞窟のような半露天の岩風呂があり、宿の名物になっている。

松楓荘を初めて訪れた10年ほど前に、私はこの岩風呂で一匹の蛇に出会った。宿から危なっかしい吊り橋を渡って対岸の風呂に入りに行くと、先客のおばあさんが湯に浸かりながら、しきりにあごで私の左上の方に注意をうながす。何事かと思い振り向いたらびっくり。大きなアオダイショウ(青大将)が舌をチロチロ出し、すぐそばの祠のようなところで、とぐろを巻いているではないか。私は蛇を極端に嫌うタイプの人間ではないが、その時は同行した女性が気味悪がり、結局、岩風呂には入ることなく松楓荘を後にしたのだった。

今回は連れもいないので、宿に着いて荷をおろすと、早速10年前に入りそこねた洞窟の岩風呂へと行ってみた。前回は蛇に気を取られてあまり感じなかったが、岩風呂の周囲には何かしら霊的なものを感じさせる独特の雰囲気がある。岩盤の割れ目から松の大木がそびえたち、その下の洞窟の祠には不動明王と薬師如来の小さな石仏が祀られている。蛇はその石仏を譲るようにとぐろを巻いていたのだが、今日は姿を見せていない。

何となく拍子抜けして湯に身を浸す。川原から湧いている源泉をそのまま浴槽にしているので成分は濃厚、少しぬるめの透明な流化水素泉だ。底も自然の岩で深い。奥は洞窟のように薄暗いこともあって、一般的な露天風呂の開放感とは正反対の閉塞感を覚える。

風呂からあがって宿の人に蛇のことを訊いてみた。
「あの岩の中には昔から青大将が棲んでいて、温泉の守り神だから危害を加えたりしないよう大切にしているんです。常連の湯治の人たちは誰も怖がったりせず、蛇の方もお風呂に人がいても平気なんですよ」
「今日はいませんでしたけど毎日出るんですか」
「さぁ、暖かい昼には外に出て来て、夕方になって寒くなると岩の割れ目の中に帰っていくみたいだけど……」
 
松川温泉の周辺は松川自然林養林で、紅葉の季節には一帯が赤と黄色に染まり、その美しさは岩手県内屈指といわれている。5月の新緑のころも紅葉に負けず劣らず美しいはずだが、この時期は観光の旅行客は少ないようで、夕食後の旅館の中はひっそりしている。
 
眠る前に内風呂に入り、部屋に戻って照明をつけようとしたら、窓越しに対岸の岩風呂の蛍光燈のほのかな灯かりが浮かんだ。夜になってからも懐中電灯を持って吊り橋を渡る湯治客がいる。私には夜、あの洞窟の岩風呂に入る勇気はない。岩の割れ目から青大将がじっとこちらを覗き込んでいるのでは……。入浴中に暗闇の中で対面したら……。そんなことを想像してしまうからだ。

翌朝、再び岩風呂に行ってみたが蛇の出てきた気配はなかった。狭い洗い場にひしめきあっている湯治のおばあさんたちに訊いてみると、蛇はしばらく見かけないとの答えが返ってきた。蛇などの特定の動物を神霊の化身、神の使い、あるいは守護神として崇拝し祀る習俗は、今も各地に痕跡をとどめている。大勢の湯治客を見守り、薬師如来の傍らで悠然としている青大将の姿は、まさしく温泉の守り神にふさわしいように思えるが、あるいは寿命が尽きたのだろうか。

各地の温泉を訪ね歩き、それを仕事の一部としている私にとって、ここで温泉の守り神に出会うことができたのは、とても幸運で縁起のいいことだったのかもしれない。

(「秋建時報」平成8年6月)
 
by tabunoki28 | 2009-03-09 23:06 | 温泉