ANA国内線【PR】
カテゴリ:旅
  • 旅する若者たち
    [ 2011-06-20 09:56 ]
  • 台湾旅行の思い出
    [ 2011-01-30 00:24 ]
  • Station To Station ―都市に棲む島―
    [ 2010-01-04 17:01 ]
  • 高知と私
    [ 2008-12-02 01:22 ]
  • 小さな旅
    [ 2007-10-08 16:44 ]
旅する若者たち
2ヵ月ほど前の7月中旬、秋田県との県境に近い青森県深浦町(旧岩崎村)の木蓮寺でJR五能線の風景写真を撮っていたら、「何を撮っているんですか」と声をかける人がいた。ふり向くと、大きなリュックを背負い日焼けした男性が、一段高い道路からこちらを見ている。ひと目見て徒歩旅行中の若者だとわかったので、私のほうが逆に興味をもっていろいろ聞いてみた。

名前はH君。故郷の群馬県の前橋を出発してから東北地方の福島、宮城、岩手、青森と北上、北海道をおよそ1ヵ月かけてめぐったのち再び本州に渡り、今は青森から秋田に向けて歩いているところだという。このあと日本海側を南下し関西へ。四国に渡ったあと九州を経て、最終の目的地は沖縄という。何事もなければ、旅が終わるのは5~6ヵ月先になるだろう、とのこと。

実は私も10代後半に、彼が歩いてきた北海道南部や津軽西海岸の道を、菅江真澄の旅の跡をたどって数十日かけ歩いたことがある。だから、彼のような若者を見ると親しみが湧き、他人のような気がしない。私に声をかけてくれたのも何かの縁かと思い、持っていたデジカメで彼の姿を撮り、握手をして別れた。
 
夏の季節に車を走らせていると、H君のような徒歩のほか、自転車、バイクなどで長距離旅行している若者たちをよく見かける。10代、20代には、私も同じように徒歩や自転車でよく旅をしていたので、彼らを目にするたびに若いころの感情がよみがえって懐かしい気持ちになる。そんな時、お金がなかったのでヒッチハイクをすることも多かった私は、恩返しというわけでもないが、ヒッチハイカーがいれば乗せてあげよう、と思う。

ところが、そんな私なのに免許をとってからこれまで乗せたことがあるのはわずか2回だけで、ヒッチハイカーにほとんどお目にかかったことがないのである。

かつて60年代、70年代のころは、ヒッピー文化の影響もあって世界中でヒッチハイク旅行を試みる若者がいたが、現在は法令で禁止している国(本場のアメリカでは州)もあり、旅行の移動手段としては世界的に衰退しているようだ。
  
日本はもともと無銭旅行=ヒッチハイクの文化がなかったので、定着する以前に衰退したともいえる。また、私自身ひんぱんに幹線道路や高速道路(最近のヒッチハイカーは高速のサービスエリアでヒッチハイキングすることが多いようだ)を走っているわけではないので、ヒッチハイカーに出会う確率が少ないこともあるのかもしれない。

私が乗せた2人のヒッチハイカーのうち、ひとりは外国人、もうひとりは女性だった。

外国人は20代半ばくらいの若いドイツ人で、15年ほど前、秋田から男鹿へ向けて土崎の臨海道路を走っている時に、道端で親指を突き立てていた。このポーズは万国共通のヒッチハイクの意志表示だ。もちろん親指以外の人差指や中指を立てたら、国によっては大変なことになる。

彼を乗せたとき、ちょうどカーステレオでかけていたのが、ドイツ映画の『ベルリン天使の詩』(1987年/ヴィム・ベンダース監督)のサウンドトラックだった。偶然にしてはできすぎていると思われるだろうが、でも、嘘のようなホントの話である。

この映画は有名なので彼も知っていて、まさかこんなところでドイツ語を聞けると思わなかったのか、驚き喜んでくれた。映画で詩を朗読するペーター・ハントケという作家について話をしたかったが、お互い片言の英語ではうまく意志の疎通ができず、男鹿半島の南海岸の門前集落まで乗せ、そこで別れた。

日本を旅行中のドイツの若者が、せっかく男鹿まで来てくれたのにろくな案内もせず、交通量の少ない辺鄙な場所で降ろしてしまった。今思えば、自宅に泊めるなどもっと親切にしてあげればよかったと後悔している。

もうひとりの女性のヒッチハイカーを乗せたのは10年ほど前のこと。彼女は早朝5時半ころ、秋田南インターチェンジの入り口に立っていた。その日、お昼に福島で取材の仕事があり、朝早く高速道路に乗ろうとした私の車に近づいてきて、東京まで乗せてくれという。

見れば、まだ高校生と思しき若い女の子ではないか。「福島までしか行かないが」と言うと「それでもいい」と言って乗り込んできた。

ひと目のつかいない早朝、若い娘がインターチェンジで東京行きの車に乗せてもらうなんて、どう考えても家出としか思えない。それに見ず知らずの男の車に乗るなんて怖いもの知らずというか、大胆だとは思ったが、私は彼女のプライベートに立ち入る話はまったくせず、福島のサービスエリアまで乗せ、そこで降りてもらった。

彼女には次は運転手が男性ではなく、女性か夫婦の車を探して乗るようにとアドバイスしたが、それを見届けることなく別れた。今でも無事東京に着いたのか、その後どうなったのか、時々気になる。結果的に家出の手助けをしたことになるのだが、彼女とプライベートな話をしなかったのは、私には10代の娘を説教する度胸などハナからなかったということだと、今にして思える。

私にとって今のところたった2人のヒッチハイカー体験だが、どちらも映画のワンシーンのような、あまり現実味のない話なのが考えてみれば不思議だ。ちょっぴり後味が悪い思いが残っていることも。

ところで、秋田・青森県境で出会った徒歩旅行の若者H君は、今ごろどのあたりを歩いているのだろうか。別れ際に彼の写真を撮った時、私のブログに載せることを了解してもらった。群馬の親御さんや友人たちが万が一インターネットで見ることがあれば、元気な姿に安心するだろう。そして私のブログを見た人が彼をどこかで目にすることがあったら、励ましの声をかけてあげることもできるだろう。

彼とはまたどこかで会えるかもしれない。旅の幸運と無事を秋田から祈ることにしよう。

(「秋建時報」平成22年9月)



by tabunoki28 | 2011-06-20 09:56 |
台湾旅行の思い出
私にとって台湾といえば、何より台湾映画。候考賢(ホウ・シャオシェン)の「恋々風塵」「悲情城市」、エドワード・ヤン(楊徳昌)の「カップルズ」「ヤンヤン夏の想い出」などの映画にロケ地として登場する台北やその近郊の風景や人のたたずまいがなぜか懐かしく、親しみを覚えるので、行く前から台湾ははじめて訪ねる場所じゃないような気がしていた。

「悲情城市」は、大陸を追われ台湾に逃げ込んできた国民党(外省人)が台湾人(本省人)を弾圧し、2万人を超す犠牲者を出したいわゆる「2.28事件」を扱った映画だが、情感たっぷりに描かれた九份(ジュウフェン)という鉱山街の風景がとりわけ印象的だった。というわけで、旅行3日目に台北から列車とバスを乗り継いで九份に行ってみた。

山の急斜面に階段状に連なる街は以前住んだことのある長崎に似ているが、メーンストリートは南北に走る一本の石段で、規模はずっと小さい。その石段の両側には、レストランや喫茶店が軒を連ね、観光客がぞろぞろ歩いている。脇道に入るとそこは食堂、市場、みやげ物屋、床屋などがひしめきあい、ものすごい人の群れ。あーあ、「悲情城市」のあの九份はどこに……。

一時はすっかりさびれ、人々から忘れ去られていた静かな街は、映画のヒットで台湾の柴又(?)といわれる一大観光地になっていたのでした。それでも、今は廃墟となった映画館に「恋々風塵」の上映中の看板がそのまま飾ってあったのには、候考賢ファンの私には嬉しかった。


九份を予定より早く切り上げて時間ができたので、思い切って東部の温泉町・蘇澳(スーアオ)へ行ってみることにした。実は台湾は日本に負けず劣らずの温泉国で、その数100カ所以上。日本の統治時代に開発されたものも多いが、3年前の1999年には「台湾温泉観光年」として官民あげて温泉地の開発が進められた。今は露天風呂ブームとかで、本屋の旅行ガイドのコーナーには、ズバリ「秘湯!」というガイドブックが並んでいるほど(秘湯ということばは日本からの輸入)。

蘇澳は台北から特急列車で2時間ちょっと。途中、太平洋の海原や、宣欄平野の田園風景に心洗われる思い。この懐かしさの感情はどこから湧き上がってくるのだろう。台北の夜市の喧噪より、車窓のアジア的田園風景に心動かされるのは、トシのせいなのかな。

蘇澳駅から歩いて3分のところに温泉公園があった。温泉といっても、ここは台湾で唯一の冷泉で、それも非常に珍しい21℃の炭酸冷泉。公園内には冷泉の湧き出る石造りの露天風呂(冷泉浴地)があり、水着の老若男女が思い思いに湯浴み(といえるのか?)をしていた。

台湾では見知らぬ人に裸を見られるのを好まないので、露天風呂は水着着用が原則。また、大きな湯舟に大勢で入るという文化もないので、公衆浴場は各個室にひとり用の浴槽が並んだ構造が一般的だ。蘇澳の温泉公園にも露天風呂のほかに冷泉浴室があったので、早速はいってみた。

2畳ほどの個室に玉砂利を敷いたレンガ造りの浴槽がひとつ。21℃なのでその冷たいこと。がまんして身を沈めると全身に気泡がつく。あがってみるとあら不思議、身体が火照ってる。公園内の屋台で魚のすり身団子と風呂あがりの台湾ビール。ウーン、満足、満足。しかし、いいことばかりは続かない。帰りの列車は身動きができないほどの超満員で、デッキと連結器の上で立ちっぱなしのまま、台北まで2時間揺られるはめになってしまった。

でも、旅から帰った今、不思議なことにこの満員列車が異国での旅の印象深い思い出として刻まれている。それは、一緒に列車に乗っていた台湾の人々が、おだやかで親切だったからだろうか。台北も大都市ではあるが、高密度の割には柔らかでぎすぎすしていない。ホウ・シャオシェンやエドワード・ヤンの映画から受ける印象そのままに。
プールのような蘇澳の露天風呂

(無明舎出版HP「舎員旅行・台湾編」より/平成14年10月)
by tabunoki28 | 2011-01-30 00:24 |
Station To Station ―都市に棲む島―
◇意識の記念物◇

高知から大型フェリーで東京へ。 かすかにローリングする船のリズムに身をまかせて折口信夫(釈迢空) の歌を呟く。

この島に、われを見知れる人はあらず。やすしと思ふあゆみの さびしさ

人も馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどの かそけさ

葛の花  踏みしだかれて、色あたらし、この山道を行きし人あり

「葛の花~」から連想する継続した時間の流れ、それは均質空間の、ただ流れ去るだけの均質化された時間ではなく一瞬の時に支配された永遠のことだ。

外洋から東京湾にはいり、観音崎をかすめぼんやり霞む巨大都市を見遙かした時、私は見知らぬ惑星に降り立つ異星人のような気持になっていた。夢の島から放たれる異臭と至るところに咲き乱れるセイタカアワダチソウ。もうこの都市に棲むこともないだろう。

東京から新潟経由で秋田に向かう。日本海沿いに北上する羽越線の列車が本荘を渦ぎるあたり、左前方にみえてくる島影。島の輪郭がはっさりするにつれてそれは陸続きの半島だとわかる。東北地方の日本海側、単調な海岸線を唯一乱している男鹿半島を車窓から望むと同時に湧き上がるある感情。それは《島》へ渡る時に決まって現れる懐かしさの感情だ。元来は男鹿半島も《島》であった。雄物川、米代川が運んだ土砂で陸地と繋がってしまい、いわゆる陸繋島となったのだ。

私はこの半島の南岸に位置する“椿”という名の漁村で生まれた。村の中心にはヤブツバキで覆われている小高い丘があり、ツバキの自生北限地として国の天然記念物に指定されている。温暖な南の地方の植物であるツバキがここだけに群生しているのは、考えてみれば不思議なことだった。南に連なるといえば、子供の頃、浜で幾度か椰子の実をみつけた。もちろん当時は「海上の道」など知るよしもないから、サッカーのポール変わりに蹴飛ばしたり、石にぶつけたりして遊んでいたものだった。

男鹿半島は日本海にコブのように突き出ている為に漂流物が多い。浜廻りの習慣が盛んだったのも寄り物が多いためだ。沖縄西北海城で黒潮の一部は西へ分岐し、九州西岸を北上して対馬海峡から日本海へはいる。対馬暖流と呼称される潮流は椰子の実だけではなく気まぐれに様々のものを運んできただろう。

またこの潮の流れにのった日本海西廻り航路による北上。その往古の動きがもたらしたものは、言葉や、民謡の一節など南西地方の文化とともに、ツバキの種子も運んだのではないか。―Station→To→Station―ツバキはそれゆえ天然記念物ではなく、港から港へ渡り歩く南の人々がもたらしたささやかな意識の記念物ではなかったろうか。


◇Stationとして◇

長崎に棲んでいた時、長崎県立図書館の1階ロビーに掲示してあった1枚のポスターを持ち帰り、ジャズ喫茶『K』の裏、薄暗い私の部屋にそのポスターを貼り、日がな―日眺めていた。それは電通の広告作文コンクール募集のポスターで、現在「ニライカナイ」の店の正面に貼ってある地図は、そのポスターから文字を切り取ったものだ。

細長い日本列島を正方形に細かく分割し、それをコラージュによって再構成したはぼ円形の日本。ある種の異様さを見る者に与えるこの地図は、また同時に新鮮なイメージを喚起させる。「古代緑地」そして「妣が国」は、きっとこのような形をした《島》に違いなかろうと―。

かつて隠岐の島や五島列島の福江島に渡る船上で私が想い続けていた幻想の《島》。静かな凪の海面に反射する陽光のきらめきを透かして次第に姿をみせる島影。その時口をついてでたのは「島へ渡る時はただの旅人(Passenger)、島から帰る時はまれびと(Visitor)」というフレーズだった。

私はいつか一個の椰子の実になろうとしたことがあった。また菅江真澄になろうとしたこともあった。様々な都市をめぐり歩いて秋田に棲む現在、私はPassengerとしての意識を遠く離れようと思う。またVisitorの悲しみも感得せぬようにと願う。ニライカナイの扉を開ける“まれびと”たちを待ち続ける―Station To Station―のToではなくStationになりたいと―。


(object magazine『遊』/昭和55年(1980)4月)
by tabunoki28 | 2010-01-04 17:01 |
高知と私
高知を初めて訪れたのは1976年の5月、今から約18年前になる。そのころの私は大学を卒業してからも定職に就くわけでもなく、東京でその日暮らしのアルバイト生活を続けていた。一定期間働いて、ある程度の金が貯まるとどこかへ旅に出る。それが当時の私の生活スタイルで、高知へ立ち寄ったのも、中国・四国地方をフラフラ歩く目的のない旅の途中であった。

訪れる前までの私にとって、高知は特別な思い人れも興味もなく、はりまや橋、桂浜、坂本龍馬といっだステレオタイプ化された観光イメージしか持ち合わせていない一地方都市に過ぎなかった。ところがどうだろう。一歩この街に足を踏み入れたとたん、アトモスフィアというかアウラというか、とにかく私の皮膚感覚を刺激、昂揚させる空気が街全体を包み込んでいて、いっぺんにK.Oされてしまった。そう、街にノックアウト。高知の街の空気は、初対面の美女の刺激的な香水に似ていた。東北地方の日本海側、秋田県の男鹿半島で生まれ育った私にとって、高知の風光はまさに南国だった。つまり私は南の香りのとりこになってしまったのだ。

秋田で5月といえば山の木々の緑が濃くなり、ようやく春の盛りを迎える頃。それが高知では、もう夏の陽差しが街の輪郭を際だたせている。ゆっくりとした路面電車の速度とシンクロして流れ去る街の風景のリズムの心地良さ。大橋通りアーケード街の裏通りに建ち並ぶ食堂に入ると、壊れかけたクーラーがブーンとうなり、おんちゃんだちが昼から酒を飲んでいる。私もビールを1本飲み外へ出ると、夏服の女子高校生が初夏の風に吹かれてさっそうと通りを歩ていく。何だかまぶしい。秋田は高校生が夏服に衣替えするのは6月になってからなのに…。

東京に帰り、またアルバイト生活に戻ってからも高知の旅の印象は消えず、それどころかますます膨らんでいった。そして数年来、惹かれ思い続けていたひとりの旅人が高知の街とオーバーラップして離れなくなった。旅人の名は菅江真澄。故郷三河(愛知県)を30歳で出奔してから東北・北海道を歩き、76歳で秋田・角館で亡くなった江戸時代後期の観察記録者である。私はこの謎の多い旅人・真澄に心酔し、真澄のような生き方を現代においてできないものかと考えるようになっていた。周遊し帰ってくる旅ではなく、1ヵ所に留まり、その土地で暮らしながらも定住とは無縁な旅の方法―「棲む旅」とでも呼べるようなものを。

高知の旅行から半年たった翌年の1月、私はそれを実行に移した。もちろん、最初の「棲む旅」の街として選んだのは高知だった。とはいっても、高知には頼れる友人・知人はひとりもいない。全くのゼロから始めなければならない。東京の部屋を引き払い、蒲団と愛車のツーリング用自転車だけを国鉄の駅留めで送り、私は身の回り品をバッグに詰めてすぐ高知に向かった。駅留めの期限が切れる前に部屋をさがさなければならないからだ。でも、この部屋をさがすというのが大変な作業。仕事もなく住所不定、身元不明の流れ者みたいな男にそうやすやすと部屋を貸すはずがない。それで私は高知大学生と嘘をついて―そうはいっても、不動産屋の人は嘘を見抜いていたと思う―街の西部の傾斜地に建つ棟割り長屋のような部屋を借りた。次は仕事。繁華街の貼り紙を1軒1軒あたり、喫茶店の厨房にもぐりこんだ。

それから私は翌年の春まで1年3カ月、高知に棲んだ。このわずかな期間に経験した出来事は短い紙数ではとても書ききれそうにない。ひとことで言うとすれば、ひとつの街と幸福に出会い、親密に交わることができたこと。その偶然と必然。それが今の私にほ奇跡のように思えるということ…。

(自費出版センター飛鳥出版室「かわら版43号」/平成6年1月)

by tabunoki28 | 2008-12-02 01:22 |
小さな旅
船、飛行機、列車、バス。乗り物なら何でも好きだが、中でも路面電車が一番好きだ。旅の感覚は何より移動の感覚だと思う。だから、町と町とを結び、路上を移動する路面電車は、ぼくにとって街暮らしの日常からたやすく非日常空間=旅に連れていってくれる便利な乗り物なのだ。とはいっても、秋田市に路面電車が走っていたのはだいぶ以前のことになる。
秋田-土崎間の市電が廃止されたのが昭和40年で、今はもう、電車が通っていたことを示す痕跡はあとかたも残っていない。ただ、土崎港町・秋田市合併50周年を記念して発行された『土崎史誌』に将軍野停留所の写真が載っていて、そこに写っている三本松だけは、当時の姿のまま残っている。

数年前、この停留所跡の近くに住んでいたぼくは、車道にはみ出している三本松を見るたびに、ここから電車に乗って秋田の街に一杯飲りに出かけられたらいいな、と思ったものだった。
そんなわけで秋田で路面電車に乗るのはかなわぬ願いなのだが、時々、無性に電車に乗りたくなることがあって、そんな時は秋田駅からのワンデイ・トリップ、つまり普通電車での日帰り小旅行にでかけることにしている。

ぼくのように組織に属さず、フリーランスの立場で働いている人間は、毎日が仕事日であり、休日でもあるようなものなので、生活のメリハリがなかなかつかない。そのため、会社勤めの人たちとはまた違った意味での気分転換が必要で、電車に乗っての日帰り小旅行は、日々の欝屈した気持ちをほぐす気晴らしにもなる。そして、この小旅行におあつらえむきのチケットが、JR東日本秋田支社から発売されているので迷わず利用している。その名も「小さな旅」フリー切符。
2000円の料金で秋田県内のJR全線と、北は青森県深浦駅から南は山形県酒田駅、東はほっとゆだ駅(岩手県湯田町)まで普通電車一日乗り放題(ただし有効日は土・日・祭日)という格安切符だ。たとえば奥羽線大館駅まで秋田駅から普通の切符を買って往復すると、3780円かかるが、「小さな旅」フリー切符を使うと、およそその半額で済んでしまう。ただ、現在、JRが奥羽・羽越両線の普通電車に使用しているのは、座席がロングシートタイプの701系という電車。都会の通勤電車のような横座りのシートなので、車窓を眺めながら飲み食いするというオヤジ臭い旅行気分を味わえないのは淋しいが…。

ぼくがこの小旅行の目的地に選ぶのは、秋田市から日帰りできる範囲内にある郡部の中心地が多い。つまり、古くからその地域での交通・交易の要所として発展した小都市だ。県北部でいえば扇田(比内町)、鷹巣、米内沢(森吉町)、二ッ井など。由利地方なら前郷(由利町)、矢島、金浦、平沢(仁賀保町)、象潟など。県南部だったら長野(中仙町)、角間川(大曲市)、六郷、沼館(雄物川町)、十文字、浅舞(平鹿町)、西馬音内(羽後町)などといったところだろうか。        
中でもぼくが気にいっているのは扇田や浅舞、西馬音内などその地域の物資の集積地で、こうした町は今も定期市がたち、地域の人々が築きあげてきた歴史と文化、生活の匂いはまだ失われずに残っている。鉄道が通っていない角間川のような町は、最寄りの駅からバスで行く。ローカルバスにも独特の味わいがあるので、それもまた楽しい。

目的の町に着いたら、まずそば屋をさがす。秋田県はお隣の山形県、岩手県と比べそば屋が少ないので、おいしいそばに必ずしもありつけるわけではない。でも、昼日中、誰に気兼ねするでもなく、銚子一本を横にして食べるそばは、そこが何の変哲のない町食堂であってもいいものだ。
そば屋の次は図書館に行く。仕事を兼ねてその地域の郷土資料を閲覧するためだが、今はほとんどの町に図書館ができて、県立図書館にもない貴重な資料を所蔵しているところもあり、思いがけない収穫があったりする。

時間があれば郷土資料館などの文化施設を見たりすることもあるが、日が暮れる前には何はともあれ銭湯を見つけ、ひと風呂浴びる。古くからあった町場の銭湯は、どんどん廃業に追い込まれ、秋田県内の銭湯は現在34軒ほど、30年前の約7分の1に減ってしまったという。営業しているところの多くも後継者はなく、一代限りといわれている。そんなことから、今のうちに郡部の銭湯に入浴しておかなければ、という思いがぼくにはある。  
夕方の銭湯は、かつての「町の社交場」としての賑わいはもう見られない。それでも、時には民謡をうなりながら、のんびりと湯につかるお年寄りに出会ったり、町内の人たちの脱衣場での世間話を聞くともなしに聞いていると、束の間、日々の閉塞感から解放される心持ちになる。

湯からあがったあとは酒場をさがす。ほとんどいきあたりばったりなので、失望することもあるが、それでも別にかまわない。適当な酒場がなければ、食堂で飲むことが多い。たいした目的があるわけでもなく、貧乏でささやかな「小さな旅」には、銘酒居酒屋なんかより駅前食堂がふさわしいのである。

(「秋建時報」平成8年10月)
by tabunoki28 | 2007-10-08 16:44 |
トップ

toshibonの雑文格納庫(since1980)
by tabunoki28
お気に入りブログ
メモ帳
Toshibon's Blog
検索
ファン
XML | ATOM

skin by excite