今年の春、桜が満開の角館「はっぽん館」で、築地俊造のコンサートが開かれた。
築地俊造といっても、秋田ではほとんど知る人がいないだろうが、プロの民謡歌手がいない奄美大島にあって、初の日本民謡大賞グランプリに輝いた島唄の第一人者である。民謡日本一になったのは確か昭和53年ころのことで、その時発売になった「まんこい節」のアルバムは、ながらく僕の愛聴盤のひとつとなってきた。コンサートは三線の弾きがたりだけで進行するシンプルなものだったが、ナマで聞く奄美民謡は、レコードとはまた違った臨場感で切々と響いてくるものがあった。
歌詞の内容は薩摩藩の支配のもと、過酷な労働と差別の中で生まれた哀話や悲恋物語を題材にしたものが多い。それをファルセットに近い高音で絞り出すように歌うから、暗い情念のようなものが唄の周囲にたちこめる。奄美と同じく唄の島である沖縄の民謡からは、悲しい恋の唄であっても、ある種の軽みや、ユーモアが漂ってくるが、奄美のものはひたすら重く切ない。宴会につきものの踊りの民謡を比べてみても、突き抜けた明るさを持つ沖縄の「カチャーシー」に対して、奄美の 「六調」には昏い情熱が底にある。
そして、伴奏楽器として全く同じ三線を使っていても、つまびくように弾く沖縄に対して、奄美は細い竹製のバチで弦を打ちおろし、打ちあげるピッキング奏法。それが内に秘めた激情を強調するかのように、独特なサウンドの表情を形づくっている。単なる唄の伴奏を越えているという点では、津軽三味線に似ているともいえるが、弾きがたりのスタイルが醸し出す歌い手と三線の一体感は、やはり島唄ならではのものだ。レコードではわからなかった三線の奏法をまのあたりに見た僕は、奄美の島唄の激しさと力強さの秘密に触れたように思い、それがこのコンサートでの一番の収穫だった。

「まんこいの郷」築地俊造
山が高く密生した木々が全島を覆い、曇りの日が多い地形的な影響に加え、薩摩と琉球の中間に位置する地理的、歴史的な特色が色濃く影を落とす奄美の島唄。その強烈な個性は、どのようにして育まれたのだろうか。
琉球音楽の発掘と紹介につとめた故竹中労氏の一説を引用してみよう。
「日本(大和)と琉球の旋律は、奄美で妖しい出会いかたをしたのではないだろうか。黒人のブルースが綿摘みの畑の叫びを母体としたように、薩摩の黒糖地獄、その苛酷な収奪と差別とのはざまで、旋律は烈しく哀愁を帯び、かえって扇情的なエロチシズムを、絶望を突き抜けて底抜けに滑稽な自棄(やけ)くそなリズムを、創唱したのではないのか…」
今、奄美には、島唄以外に僕を捕らえて放さないものがもうひとつある。それは、田中一村(いっそん)の絵画。一村は昭和33年、49歳の時、千葉県から単身奄美に移住し、昭和52年、69歳で亡くなった日本画家である。一村が知られるようになったのは、NHK教育テレビの番組、「日曜美術館」で紹介され、大きな反響を呼んでからのことで、それまでは全く無名であった。
わずか十数年前、時流に背をむけ自分の理想を貫き、南の島の孤絶した環境の中で息絶えたこの画家の存在を知った時、僕は驚かずにはいられなかった。中央画壇に出ることなく、妻もめとらず、ただひたすら描き続けた真に孤高と呼ぶにふさわしい生涯も衝撃的だったが、何よりもその絵画世界に圧倒されたからだ。
くねる枝と鋭角的に広がる葉の背後に、寄せてくる波の影と黒い雲、遠雷の稲妻ような陽光が注いでいる代表作の「アダンの木」。亜熱帯の樹木や草花、昆虫を前景に、葉の陰やすき間から海と立神と呼ぶ岩を望む「奄美の杜」。 一連の絵画の持つ色彩感覚と幻想性は、日本画のイメージとはかけはなれた独創的なもので、同じように南を描いたアンリ・ルソー的な世界を想い起こさせる。しかし、一見すると南国特有の装飾的で官能性豊かな画面とはうらはらに、南の明るさのようなものは感じられない。どこかストイックなのだ。厳しさと強さ、そして静けさ。そこには奄美の島唄から受ける印象と似通ったある種の翳りのようなものがある。
奄美の歴史・風土の中から生まれ、歌いつがれてきた島唄と、奄美の天然自然の営みと一体となって生まれた一村の絵。一村がもっと南の沖縄、八重山諸島まで行っていたら、沖縄民謡のような南の明るさと軽やかさをもった絵を描いただろうか。ふとそんなことを思う。

(秋建時報 平成8年年9月)
※田中一村記念美術館
http://www.amamipark.com/isson/isson.html